Seiko-Jiro.net

HOME   NEWS   FORUM   LINK   ACCOUNT   CONTACT US  

メインメニュー

ニュース・アーカイブ

ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

反戦・平和
反戦・平和 : 「アフガン零年」
投稿者 : seiko 投稿日時: 2004-04-01 12:17:37 (2259 ヒット)
「アフガン零年」
http://www.uplink.co.jp/afgan/
私は、映画の中に登場する「お香屋の少年」の眼で見ている自分に気づきながら観続けました。自由・希望・平和を改めて深く考えることの出来る映画でした。西口で一緒に意思表示している加藤千代さんが映画雑誌「シネ・フロント」2月号(322)に監督インタビューを書かれています。編集部と加藤千代さんの承諾を得てここに掲載させていただきます。(おおきせいこ)

||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
 長い間、戦争と貧困に苦しんできたアフガニスタンの悲劇の深さを映画を通して世界中の人に伝えたい
●『アフガン零年』の演出を語る
物乞いをしてい
た少女を主役に

ーー主役を演じたマリナという少女が心に焼き付いています。彼女とはどうして出会ったのですか?
 「あの映画をつくるにあたって、最大の課題は、主人公を演じる少女をみつけることでした。アフガニスタンには、戦争で親を失ったり、貧困のために、路上で暮らす子供たちがたくさんいて、カブール市内には5万人にものぼるストリートチルドレンがいます。そんな少女たちが、読み書きを習ったり、職業訓練を受ける施設があるんですが、そういった所を訪ねて、3400人ほどの女の子に会い、話を聞きました。
でも、なかなか私が探し求めている少女には出会えず、二カ月近くがたってしまいました。そんなある日、カブールの通りを歩いていると、路上で一人の物乞いの女の子に出会ったんです。近付いてきて“お恵みください”と言った少女の目には、何か不思議な光があって、深い悲しみが宿っていました。その瞬間、あっ探していたのはこの子だと思ったんです。それがマリナでした」
ーーマリナは、どんな人生をおくってきた少女なんですか?
 「マリナは撮影当時12歳でしたが、8人の家族を養うため、幼い妹や弟を連れて朝から晩まで街をさまよい、物乞いやゴミ拾い、残飯あさりをしていました。5歳のときからそんな暮らしをしてきたので、学校にも行っていません。父親は戦争中、タリバンに捕まり、刑務所で拷問を受けたため、足に後遺症が残って、仕事ができなくなってしまったんです。マリナの一家は以前はカブール北部にある故郷で暮らしていたのですが、その辺りはもっとも激しい戦場となった所で、家が空爆にあい、2人の姉が崩れた壁の下敷きになって亡くなりました。それでカブールに逃げて来たのですが、そこで今度は2年前にアメリカによる空爆がありました。マリナが生まれてからずっと戦争ばかりだったのです」
ーーマリナの悲しそうな表情には、本当に胸を突かれるものがありました。普通なら夢見る年頃の少女なのに、悪夢を見てしまった老婆のような、苛め抜かれてきた野良猫のような、絶望しきった顔をしている。それは演技ではなく、彼女自身が持っているものだろうと感じました。 
 「撮影中、“心の中で悲しかったときのことを思い出して、ただ悲しい表情で見つめてほしい”と、マリナに頼むと、彼女は何度も涙が止まらなくなってしまいました。戦争のときのつらかったことが昨日のことのように蘇ってきてしまうんすね
戦火に追われ、兄弟とお腹を空かせて震えながら夜を明かしたこと、カブールにアメリカの飛行機が爆弾を落としてたくさんの人が亡くなったこと……こうしたことを思い出すと、何もしなくても本当に泣き出してしまうんです。戦争のせいです。マリナは感受性が強く、繊細な心をもった少女ですし、戦争や破壊の記憶が心に深く刻まれ
ているのです。アフガン人一人ひとりの人生には、常に戦争が影を落としています。
特に子供たちの心に刻まれた戦争の傷は、決して消えることはありません。映画でマリナが流す涙の一滴一滴が、人々の胸を刺すと思います」
ーー祖母とか母の役をやった女性たちも、俳優さんではないのですか?
 「そうです。国内の避難民キャンプをたびたび訪れ、映画の出演者を探しました。
アフガニスタンの人々が実際に味わった苦しみや悲しみを、映画に描くべきだと考えたからです。だから、避難民キャンプで出会った、家族を戦争で失い、家も財産もなくしてテント暮らしを続けている女性に、主人公の祖母や母親の役を演じてもらいました。アフガニスタンでは23年間も長いこと戦争が続き、そのために国民の10人に1人、200万人が命を落としました。なかでも、戦争でもっとも犠牲を強いられてきたのは、女性たちです。母は息子を失い、妻は夫を失い、路頭に迷いました」
ーーエキストラの子供たちは、どうやって探したのですか?
 「すべてストリートチルドレンから選びました。1日の撮影で、日雇い労働者1日分の給料にあたる300円のギャラと食事を配って。ポリオの後遺症を抱えた子供にも、出演してもらっています。戦争の影響でアフガニスタンではワクチンが行き渡らなかったせいで、多くの子供たちが後遺症に苦しんでいるんです」

厳しい現実を描
くことに徹した

ーーこの映画の構想は、どんなふうに生まれたのですか?
 「私がパキスタンで難民生活を送っていたときに、アフガニスタンで生き抜いていくために髪を切って男の子を装った少女がいたという記事を新聞で読んで、映画にしてみようと思い、脚本を書き始めたんです」
ーー女性は男性同伴でなければ外出できないし、外で働くことも許されない。そんなふうに女性が抑圧された状況に置かれているというのは、同性としてすごくショックで、観終わっても、つらくて、しばらく俯いたままでした。でもこれは、アフガニスタンでは真実なんですよね? 
 「ほとんどが事実です。主人公の少女はたくさんある悲劇の一つの顔なんです。タリバン時代には、女性への様々な強制があって、違反すると刑務所に収容されました。映画の中で、少女が無理やり宗教指導者の第4夫人にさせられますが、10代の少女が、貧しさからお金のために望まぬ結婚をさせられることも、現実に起こっている悲劇なんです」
ーー家族が、有無を言わせない感じで強引に少女の髪を切ってしまいますが、親子関係でも子供は親に従うものとされているのですか?
 「そうですね。西洋と違って、中近東の国々では、家族がどうするかを決めるのは親で、子供は親の言うことに従うべきだという伝統的な考え方がありますからね。特に、この家族の場合、その苦しみは非常に深くて、男手がないため働いて生活の糧を得ることができず、困窮して追い詰められていますから、娘に男の子のふりをして働いてもらうしか方法がなかったんですね。タリバン時代、我々は生きていくのに最低限必要な食事にすら事欠く状態で、それを得るために命がけでいろんな努力をしないといけなかったんです」
ーー監督ご自身は、タリバンの政権だったとき、どんなイヤな思いをしましたか?
 「私が非常に堪え難かったことは、自分の生きる道が一つも自分で決められなくて、自分の意思がまったく持てなかったことです。少しでも政府を批判したりすると、スパイのように人々の言動をいちいち密告する人がいて、すぐに逮捕されました。だから、だんだん皆お互いに疑心暗鬼になって、誰も信用することができなくなってしまったんです。みんな夜、安心して普通に寝ることもできませんでした。今にもドアからタリバンが入ってきて、何かひどいことをされるんじゃないかという恐怖に常におののいていたんです」
ーー監督のように表現活動をなさっていた方は特に、厳しい規制があって、描きたいことを描けない、映画もつくれないという状況が、いっそうつらかったんじゃないですか?
  「そうですね。そういうことはずっと続きました。80年代、ソ連侵攻後、ソビエト共産党の傀儡政権ができたときは、その政府の圧力で、アフガニスタンではプロパガンダ映画ばかり製作されていました。一方、ソ連が奨学制度をつくって、若い映画人5人をモスクワの映画学校に留学させたので、私もその一人として6年間モスクワで映画を学ぶことができたんですけどね。帰ってくると、政府軍と反共産政府のムジャヘディンとの間で戦争が始まっていて、最初、私は、政府軍の兵士になることを命じられて、ドキュメンタリーの撮影をすることを条件に、兵役についていたんです。でも、戦争の恐ろしさ、愚かさを肌で感じるうち、政府軍のあり方に疑問が湧いてきて、反戦的・反政府的な内容のテレビドキュメンタリーをつくりました。そのため、その作品は放映禁止処分を受け、私は政府のブラックリストにのることになってしまいました。それで、その後、私は、ムジャヘディンの指揮官であったマスード将軍に共感し、彼のもとで映画をつくることになったのです。やがて、アフガニスタンを支配するようになったタリバン政権は、映画を一切禁止し、大量のフィルムを焼き捨てました。私自身も北部同盟側ということでタリバンの迫害を受け、命の危険を感じて、国を逃れました」
ーー亡命したパキスタンのペシャワールでも、映画の仕事をすることができたのですか?
 「6年余り難民となっていた間も、映画をつくり続ける希望は捨てていなかったですけど、一番望んでいたことは、早く祖国アフガニスタンに戻って、自分がつくりたい映画をつくることでしたね。ペシャワールでは友人と一作だけ映画をつくることができましたが、プロデューサーを探すのも非常に大変で、難しかったです。パキスタンはタリバンを非常に支持し支援していた国だったので、もしタリバンに反するような映画をつくったら、また面倒なことになってしまうため、そういう作品はつくれませんでしたし」
ーー『アフガン零年』の製作を、『カンダハール』を撮ったイランのマフマルバフ監督が、随分バックアップしてくださったそうですね。
「はい。彼の娘のサミラさんがアフガニスタンで映画を撮ることになって、マフマルバフ監督がいらしたときにお会いし、私が映画のアイデアを話すと、“君はその映画を撮るべきだ。私が支援しよう”とおっしゃってくださったんです。資金の調達だけでなく、サミラさんの映画に使った撮影機材を使わせてくれ、そのときの撮影クルーがそのままスタッフとなって手伝ってくれました」
 ーー脚本の段階では、完成した映画とは違う、希望に溢れたラストシーンになっていたそうですね?
 「ええ、そうなんです。最初は、『虹』というタイトルで、マリナが虹をくぐり、縄跳びで駆けて行くというラストシーンを考えていました。アフガニスタンには、虹をくぐると自由になれるという伝説があって、“虹”は自由の象徴なんです。ですから、戦争の悲惨な過去から女性や子供たちを解放したい、アフガン人は自由になるべきだ、というメッセージを込めて、過酷な人生をおくってきた主人公の少女が、自由を手にするという場面でこの映画を終わらせようと思っていました。アフガニスタンの未来に希望を託したいと思ったのです。実際にその企画通り、虹のシーンを撮影しました。でも、いくらマリナに“嬉しそうに虹の中を走って来てごらん”と言っても、彼女はどうしても笑えないんです。戦争のことを思い出しては泣いてしまう。そんなマリナの深い悲しみを見つめながら、撮影を進めるうち、今のアフガニスタンで、自由や希望はあるのか、現実はそんな甘いものではない、と考えるようになりました。それで結局、すべて撮影が終わってから、その希望を描いた理想的なラストシーンは一切カットしようと決心したんです。『虹』というタイトルも捨て、自由を奪われたアフガニスタンを象徴する刑務所の中で、少女が縄跳びをするところで終わるようにしました。アフガニスタンでは悲劇が今も続いていることを、この映画を通して、世界中の人に知ってもらいたかったのです。アフガニスタンの戦争と貧困の悲惨な現実、誰にも振り返られることのない、私たちの胸に秘められた悲しい思いを、伝えたかったのです」

アフガン人にと
っての平和とは

ーー日本にも、アフガン人の方が助けを求めて来て難民申請をしていますが、今でも難民にならなければならない状況は続いているのですか?
 「そうですね。パキスタンの難民キャンプから、2002年には約160万人、2003年には100万人以上のアフガン人が戻ってきていますけども、それで問題が解決したわけではないんですね。私は、難民となった人たちが、少しずつでもいいから祖国に戻ってきてほしいと思っていますけど、帰国してからもまだたくさんの問題が残っていますから。ソ連の侵攻があり、それから政府とムジャヘディンとの戦いがあって、その後、タリバンが現れ、アメリカが侵攻して来て、ずっと戦争が続いたので、そのせいで何かも失ってしまった人がいっぱいいるんですよ。難民として出て行って今度また戻ろうとしても、国土は荒廃し、自分の国には土地も家も、仕事も何もない。今まだ、アフガニスタンには1000万個もの地雷が残ってるので、自分の国に帰る途中にも地雷を踏んでしまう人があとを絶たず、女の人や子供といった普通の人たちに、たくさんの被害が出ているんです」
ーー米国などの他の工業国が地球環境を汚染したせいで、その皺寄せをアフガニスタンが被り、水が枯れて旱魃になり、主要産業だった農業が打撃を受けてしまったそうですね。ひどい話です。日本のニュースでは、アフガニスタンで部族同士の争いが今もあると報道されているのですが、それは本当なのでしょうか 。
 「みなさんのメディアではそう報道されていますが、もともとはそんな争いは何もなかったんです。この戦いを誰が始めたかというと、戦争によって利益を受ける人たちなんですよ。隣国の国々にもそういう人がいて、特にパキスタンはタリバンをずっと援助していましたので、民族間の対立を非常に煽ったわけですね。それでタリバンが強くなった。だいたいタリバン自体が、そもそもアフガン人じゃなくて、みんな外から来た外国人なんです。それで、アフガニスタンにはパシュトゥン人、ハザラ人、タジク人、ウズベク人など、いろんな民族がいますけど、それらすべての民族がみんな一つになって、このタリバンと対立し戦ったんです。ですから、私たちアフガン人は自分たちの中では戦っていません」
ーーそうでしたか。アフガニスタンはいろんな国の犠牲になってきたんですね……。
私は、9・11テロの後にアメリカがアフガニスタンに侵攻したとき、強い怒りを覚えた一人です。日本にもそう思っている人もたくさんいて、抗議の反戦デモが行われたり、アメリカを告発する「アフガニスタン国際戦犯民衆法廷」が開かれたりもしています。アメリカの政治的・経済的利益のための、侵略としか思えない攻撃によって、地雷や放射能が残るような残酷な兵器が使われ、大勢の民間人を殺戮したことは、許されない国家犯罪だと思っています。監督はアフガン人の一人としてどう思われますか?   
 「確かにその通りです。アフガニスタンは地理的にいろんな国と隣り合っているため、今までずっと大国の戦いの現場になってきたんですよ。昔でいえば、ソ連とアメリカが喧嘩をするのにアフガニスタンに来ましたし、力比べをするっていうと戦場としてすぐアフガニスタンを使うんです。そういうことの延長に、2001年の戦争も起こったんですね。アフガン人は、これまでこんなに苦しんできたのは誰のせいか、なぜそういうことが起こってきたか、戦争を引き起こした相手も理由も、よくわかっています。今も南部では戦闘が続いていますが、アフガン人は皆、戦争は嫌いです。
もうやめてください、二度と戦争にならないようにしてほしいと、誰もが神様に祈っています。ただ、私たちも、今まで自由な世界に対して閉じていたところがあったと思うので、これからはできるだけ、自分たちの社会を世界に向けて開こうとしています。それまで悪いことをしてきた我々の敵だった国も、ちょっとは反省したのか、
“これからはアフガニスタンの力になりますよ”といろんな約束をされてますので、それを口約束でなく、ちゃんと果たしてもらおうじゃないかということで、今動いているので、それにすごく期待しています」
ーーでは今、いい方向に向かいつつある状態なんですか?
 「そうですね。今はいい方向に向かう活動がかなりされています。現在アフガニスタンでは、ロヤ・ジルガ(国民大会議)で、いろんな民族から選ばれた国会議員が、新しい憲法をつくろうとしてる最中なんですよ。(*取材は2003年12月。2004年1月4日に新憲法を採択)その憲法ができれば、戦争によって崩壊し混乱していた社会が一歩を踏み出し、国内が少しはまとまって安定した形になるかもしれない。ただ、まだちょっとパキスタンの問題が残っていて、アフガニスタンが平和になることをあまり望んでいないみたいなんですね。国連などに間に入ってもらって、両国が平和的な関係を築けるようにしてほしいです」
ーー次回作のご予定は?
 「私は常に新しいものを求めてますので、『アフガン零年』は自分にとってはもう古くなってますから、できるだけ早くアフガニスタンに帰って、次の映画を撮り始めたいですね。正直言うと次の映画のことで今、頭がいっぱいなんです(笑い)」
ーーそれはどんな映画なんですか? 
「詳しいことはまだ秘密ですけど、アフガニスタンの国と人々についての映画です。自分たちが受けてきた痛みを伝えられるのはアフガン人である我々自身だと思っているので」
ーー監督の映画を拝見すると、アフガニスタンの平和と幸せを願う気持ちが痛いほど伝わってきますが、監督が望む平和はどんなものですか?
 「私個人にとっては、アフガニスタンで安心してつくりたい映画を心ゆくまでつくることですね。平和とは何かというのは、それぞれ人によって、置かれている状況によって、意味や形が変わってきます。日本の方たちにとっては、最新の車を買って乗ることや、海外旅行をすることが平和かもしれない。だけど、世界でもっとも貧しい国の一つと言われ、国民の9割が最低レベルの生活をしている現在のアフガン人にとって、平和とは、一食でいいから、誰にも邪魔されないで何の心配もなくゴハンが食べられることなんです」
ーー監督の映画が、また日本で公開されるのを楽しみにしています。
(3月13日より恵比寿の東京都写真美術館ホール、大阪シネ・ヌーヴォ他、全国順
次公開)

     インタビュー?加藤千代

セディク・バルマク
1962年、アフガニスタン生まれ。映画監督に憧れて10代中頃から撮影所でスタッフの手伝いを始め、17歳で初めて8ミリ作品を撮影。親ソ連共産党政権下にモスクワに留学して映画を学び、数本の短編映画を製作。アフガニスタンに帰国後、テレビドキュメンタリーをつくるが、反体制的な作品が政府ににらまれ、反政府のマスード軍のもとで「ムジャヘディン・フィルム・ファンデーション」を設立し、映画製作
を指揮。96年、タリバン軍がカブールを制圧後、パキスタンへ亡命、BBC教育ラジ
オの仕事に携わる。01年、タリバン崩壊後はカブールに帰国し、母国の映画復興を推
進。2003年、初の長編映画で監督以外に脚本・編集もした『アフガン零年』を完成。



『シネ・フロント』
●作家の生の声、製作現場の声、作品の背景分析に力を入れています。
●できるだけシナリオを掲載しています。
●海外の映画情報や、日本映画の歴史を系統的に取り上げています。
●地味でも良心的な映画をつくっている独立プロ作品や、アジア映画など、ハリウッド映画以外の作品も大切にしています。
●映画の紹介を通して、平和のメッセージを送り、映画界からの反戦アピールなども紹介していきます。
●定期購読者は、岩波ホール総支配人・高野悦子、アニメーション監督・高畑勲、シナリオライター・山田太一、映画監督・熊井啓、山田洋次などの映画関係者や、映画サークルの方などがいらっしゃいます。
シネ・フロント連絡先
〒113?0033
東京都文京区本郷5?23?6?201
電話03(5802)3121
fax 03(5802)3124
「シネ・フロント」定価(700円+税)〒84円

印刷用ページ このニュースを友達に送る

投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。
投稿者 スレッド

「明日も晴れ」記事検索

平和!グッズ販売



Site Design by West Wind,Theme from Ocean-Net