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エッセイ
エッセイ : 『鈴木一誌・エッセイ』第一回 <昭和>とともにある自分 〜新宿ゴールデン街で〜
投稿者 : seiko 投稿日時: 2009-02-11 23:37:54 (4486 ヒット)
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
<昭和>とともにある自分 〜新宿ゴールデン街で〜

 しばらく足を運んでいなかった新宿ゴールデン街に、このところたびたび行く。しごとの打ち上げだったり、店内での写真展を見にいったりと、理由はさまざまだが、訪れてみるとクセになって、また行きたくなる。客層も、ずいぶんと若返り、外国人も多い。「どこぞの店のママはフランス語が話せる」といった情報が、ガイドブックやインターネット経由で世界中に発信されているらしい。観光地的な視点で眺められているのかもしれない。そういえば、ゴールデン街入り口の小さな看板には、「撮影は有料です」とある。見物客が、写真を撮るばかりでは商売に差し支えるし、客も酒が旨くない。いっぽう、店の一隅に腰を据えた自分を観察してみると、狭い空間に包まれて気持ちが奇妙に落ち着くのを感じる。同時に、映画のセットに紛れこんだかのような感触もある。どんな映画のセットなのか。強いて言ってみれば、〈昭和〉に逆戻りしたような気分だ。
 先日も、写真家の森山大道さんとゴールデン街に行った。デザイナー・戸田ツトムとふたりして責任編集している雑誌『d/SIGNデザイン』で、森山さんにインタビューすることになった。さて、場所をどこにするか。森山さんは、ゴールデン街の「サーヤ」二階がいいのでは、とおっしゃる。森山さん行きつけの店であり、夕方五時から開く、こぢんまりとしたその店の二階は、貸し切り状態で、落ち着いて話が聞ける。けっして明るいとは言えない階上の部屋で、ウーロン茶をかたわらに置いて、森山作品の光と影について聞くのは、ぜいたくな時間だった。
 二時間半ほどかかってインタビューが終わり、じゃあ、あらためて呑みに行こうか、となって、同じゴールデン街の「汀」に直行する。ここは、シンガーの渚よう子さんがやっている店で、歌謡曲や映画ファンの常連も多い。天井には、今では入手困難な神代辰巳監督作品のポスターなどが張りめぐらされてある。話は、二〇〇七年八月一日に亡くなった阿久悠さんのことになる。阿久作品のどの曲が好きかを、森山さん、渚さんとしゃべっていると、となりの客が、「人間はひとりの方がいい」(一九七六年、森田公一とトップギャラン)がすばらしいと割って入り、同じ森田公一作曲の「乳母車」もよかったね、と会話が転がっていく。帰り際に、渚さんが自身の新作アルバムをプレゼントしてくれる。
 そのアルバム「ノヴェラ・ダモーレ」に、阿久悠がふたつの作詞を寄せているのに気づいたのは、数日後のことだ。チラシには、「阿久悠書き下ろし作品」とあり、アルバム自体が二〇〇七年八月発売であることを考えると、阿久さんの遺作的作品と言えそうだ。作品のひとつが、「どうせ天国へ行ったって」(渚よう子歌、大山渉作曲、松本俊行編曲)である。「どうせ天国には誰もいないのだから、そんなところへは行きたくない。友だちも恋人もみんな地の底でわたしを待っている」、そんな内容の歌詞だ。死者は成仏なんかしていない、地底でうごめいているのだ、と。そこに、〈昭和〉は終わっていない、との作詞家のメッセージを感じる。
 ジャンルとしてはドキュメンタリーやノンフィクションに分類されるのだが、色眼鏡で見られがちな本に、〈戦記物〉がある。第二次世界大戦に関する〈戦記物〉に、すぐれた書き手がいる。渡辺洋二だ。著書名をランダムにあげてみるならば、『本土防空戦』『局地戦闘機・雷電』『死闘の本土上空』『創発戦闘機・屠龍』『ジェット戦闘機Me262』『首都防衛302空』といったぐあいで、やはり手を伸ばしにくい雰囲気がある。
 最新刊『特攻の海と空 個人としての航空戦史』(文春文庫、〇七年)では、日米の資料探索と生存者へのインタビューに基づいて、〈特攻〉に向きあい死んでいった人間の一挙手一投足を記述する。そのあとがきには、特攻出撃の命令を下した「高級将校、参謀が、一億総懺悔(そうざんげ)の合唱に隠れ、自己正当化の言葉をならべて戦後を生き延びた例は少なからず存在する。彼らが果たさねばならない責任から完全に逃れ、市民にまじって暮らす異常な事態が見過ごされてきた」と書く。市民とは、特攻推進者も含むのか、と問うのだ。市民という全体はありうるのだろうか。
 つづけて渡辺は、「私は一九八五年以来、ときには特攻推進者の実名を掲げ、自著にこのことを記述し続けてきた。望んだのは、彼らからの抗議である。それを受けて、公開の討論会を催し、連中の非道を摘出するのが願いだった」と記す。しかし、歴然たる反論はひとつも現われなかった。「二十余年がすぎ、糾弾(きゆうだん)の対象者はあらかた冥土(めいど)へと去ってしまった。そうなる前にもう一歩踏みこんで、土俵の上に引きずり出すべきだったのか」とも悔やむ。〈特攻〉なる概念を否定して終わるのではなく、〈特攻〉の内部に入りこみ、肉を外へと食い破ろうとする文章とでも言えばよいか。
 渡辺は別著で、「万事が終わったあかつきに、決死戦法を命じ操縦者を殺した責任をとるのは当然だろう」(『大空の攻防戦』朝日ソノラマ、1992年)と言う。しかし、特攻におもむく若者に、お前たちのあとに自分たちも必ずつづく、と檄を飛ばしながら、戦後に命をみずから絶った指導者は皆無に近かった。それゆえ特攻隊員が、「日本があのように負け、今日の状況に到ったのを知ったなら、「命を返せ」と思っても当然だ」と断じる。
 「操縦者を殺した責任」といった書きぶりからも、渡辺が、飛行機好き・パイロットびいきなのがうかがえ、批判は、用兵者ばかりではなく、技術者にも向かう。実用化されなかった特攻専用のジェット機に「梅花(ばいか)」がある。「梅花」実現へのO博士の積極的な姿勢を、「技術者と人間性とのある種の乖離(かいり)」とし、さらにO博士を追悼する戦後の文章に、「梅花」が「実現に到らなかったことは真に惜しまれる」と書く弟子筋の技術中佐に、渡辺の指弾はおよぶ。「敗戦からわずか七年五ヵ月のときに、このような文章を書ける元航空本部/空技廠部員がいたことを、天上の特攻散華者たちは何と思って見おろしていたのだろうか」(『日本の軍用機 海軍編』朝日ソノラマ、1997年)。だが、軍首脳部、部隊幹部、参謀たちは「「恩給」付きで戦後を生きのびた」(同前)。
 特攻隊員は、天上で安らかに眠っているのではなく、いまだ地底でわたしたちを待っている。渡辺の著書から伝わるのは、戦争はいまだ終わることができていない、との感触だ。「用兵者はもちろんのこと、技術者も時に良心を失って、若人の殺戮(さつりく)計画に加担した事実は消えない」(同前)。死者に対しての責任がまっとうできていない。そして、おそらく死者に対しての責任をまっとうすることなど誰にもできない、とも読める。〈戦争〉は終わってない、と思いつづけることが、せめてもの死者への責任ではないのか。前の戦争が終わっていないのだから、つぎの戦争など論外なのだし、勝ち負けや靖国神社が、戦争を終わらせてくれるのでもない。
 阿久悠の作詞になる「昭和最後の秋のこと」(桂銀淑歌、浜圭介作曲、1999年)からは、「飢えて痩せて目だけを光らせていた子どものすがたを忘れない」との思いが伝わってくる。〈昭和〉とは、戦争が終わってないことを伝達する名前なのだ。〈昭和〉を〈二〇世紀〉などと、それぞれが呼びかえればよい。〈昭和〉とともにある自分を、ゴールデン街で見いだしてみるの悪くない。
                          グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)

       
       特攻基地跡 鹿児島県・笠之原 79年4月 撮影:大木茂
       
       靖国神社 80年10月 撮影:大木茂

「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』NO104(2007年10月発行)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これから続けて掲載してまいります。
09-02-11(おおき せいこ)

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