家族殺傷事件を思い「ジローのはなし」を書きたいと思いました。

投稿日時 2003-11-10 02:25:43 | カテゴリ: ジローの話


(二代目ジローの5ヶ月頃です。まだ口元の黒も残っています。)

 家族殺傷事件を思い「ジローのはなし」を書きたいと思いました。 大木晴子

毎日、胸が張り裂けそうな思いになる事件で日本はいっぱい。
その当事者が若者であればなおさら、その子の幼い頃はどんな過ごし方をしていたのだろうと考えてしまう。
いまテレビ番組でも新聞でも話題にしている大阪で起きた家族殺傷事件を見聞きする中、
このところ私が目にした子育て中の母親とその子どもの視線が気になってしかたがない。
10月末になるのに少し汗ばむ日、乾いたのどに飲み物を買い電車に乗り込みました。
一人おいてバギーに一歳ぐらいの男の子を乗せ、前に座るその母親は携帯でメイルを打つのに夢中でした。
私は、のどを潤そうとバッグに入れたお茶に手をかけた時、その男の子が舌を出し唇をなめて見るからにのどが渇いている様子がわかりました。
彼は、母親を見て何度も繰り返し同じ行為をしていました。
でも、母親は私が四つ先の駅に降りるまで我が子に目を向けることは一度もありませんでした。
その間、子どもは母親を見つめ、いま気づいてくれるかと見ている目がやがて諦めの目に変ります。
その目は、今年、たくさん見た遠い国の子どもたちの目に何処か似ていると一瞬思いました。
私は、席を立ち降りる時に男の子に話しかけました。
「今日は、暑いわね、お水が飲みたいのかなぁー」とこの時初めて母親は携帯から目をはなし、怖い顔で私を見ました。
子どもは、いろいろなものに関心を向け体験、経験をして心のタンスにその感じた形、色、香り、温もりまた冷たい思いも仕舞われていくのだと思います。
そこに仕舞われたさまざまなことは、結果として何十年か先に見えてくるのではないでしょうか。
私は何度も流産をし、子どもを持つことが出来ませんでした。
最後の子どもは九センチまで育っていたと主治医から聞かされた時のこと。
二ヶ月の病院での生活で知る限りのお話をお腹に手をあて聞かせ、
知る限りの歌をうたい過ごした日々を忘れることが出来ません。
連れ合いが買ってきてくれた暮らしの手帳の「素敵なあなた」や
「まどぎわのトットちゃん」をお腹の子と噛みしめながら読んだことを。
その時、いたずらなトットちゃんに毎日「あなたは、良い子だね」と優しく頭をさわりながら言ってくれる
トモエ学園の校長先生の言葉に感動し、私もこの子に言い続けましょうと思いました。
しかし、病院の窓からも子どもの成長を願い泳ぐ鯉のぼりが目立つ頃、主治医 から
「大木さん、もう母体が危ない手術しましょう」と告げられ、私は子どもの日の前日に退院しました。
その日から、私の寂しさを癒し助けてくれたのが先代次郎でした。(フォトアルバム・レシピの所に写真を載せました)
そして、毎日「あなたは、良い子だね」と話しかけ一緒に歩み始めました。
彼は十五歳と十一ヶ月、松本サリン事件が起きた日に天国へ旅立ちました。
彼の通夜、最後の弔問客が帰られたのは時計の針が次の日を指していました。近くに住む中学生の娘さんが言った言葉が耳に残ります。
「おばあちゃんが亡くなった時は、こんなに近所の人が来てくれなかったどうして、次郎君は犬なのに」と。
次郎を愛してくださった皆さんに下記のようなお手紙をお出ししました。
この手紙を読んで下さった方から「我家の元気が近くのメグちゃんと恋をして子どもが産まれます。晴子さんに育ててほしい」と。
子どもを育てるように、母が私に残してくれたものを探りながら母と同じような気持ちに近づきたいと願いながら、ジローと歩んできました。
これから「ジローの話」をときどき書いていきたいと思います。

次郎を愛してくださった皆様へ



94年6月27日5時30分、次郎は天国へ旅立ちました。15歳と11ヶ月でした。
彼は、生まれて1ヶ月目に私達の家族になり、ここT町で育ちました。
育ての親に似て足の太い次郎は、20キロ近くまで大きくなりましたが、
亡くなった時は、片手で抱きかかえることができるほどでした。
彼は2年前、脳梗塞で倒れました。発作がひどく、一時は「もう駄目かもしれない」と覚悟をしました。
しかし、「あみ動物病院」の西河ゆあみ先生の治療のお陰で奇跡的に命を取り止めることができました。
少し眼が見えにくくなったようですが散歩をたくさんして、曲がった首をマッサージし、
見た目には、もとの次郎になりました。
その後見つかった肝臓近くの腫瘍やいつ起きるかわからない発作に、不安を覚え暮らした2年と数ヶ月でした。
私達は、次郎と楽しい思い出をたくさんつくりたいと雪が大好きな彼を連れて岩手や福島へ行き、
体が埋まるほどの雪の中で遊びました。
赤いレインコートを着て顔にいっぱい雪を付けていた次郎の姿が目に浮かびます。
ゆっくりゆっくり歩く彼との散歩は、いつも心が満たされ幸せな時間でした。
それは、見知らぬ人との出会いや木や草花そして月や星など、自然を通して体全体で感じることができました。
きっと次郎も同じだったと思います。
彼は6月13日の夜に発作を起しました。
その日から水だけしかうけつけなくなり、体のやせぐあいからか先生は、
長くても1週間と言われました。
しかし、彼は頑張りました。
10日間がすぎる頃まで、抱っこをして匂いのする所へ行くと自分で立っておしっこをしました。
最後まで自分の力を振り絞ったのだと思います。
次郎と一緒に散歩に出ると、いままでに出会った人達と不思議なくらいお会いし、
皆さんに優しい声をかけていただきました。
「次郎君よかったね。皆に『ありがとう』しましょうね」と感謝したこの2週間でした。
27日の夕方、私の手の中で「コト」と喉をならし彼の心臓が止まりました。
この後、次郎は口を大きく開けて『わぁう・わぁう・わぁう・わぁう・わぁう』と5回繰り返したのが彼の最後でした。
それが、私には次郎が『あ・り・が・と・う』と言っているように感じられました。
自分を愛してくれたすべての皆様に言いたかったのだと思います。
次郎に替わりお礼申し上げます。ありがとうございました。(おおきせいこ)




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