私のことを書いた「草の根通信」★「菊屋橋から出た日」も読めます。

投稿日時 2008-09-22 14:30:21 | カテゴリ: エッセイ



(たくさんの人が集まった1969年の新宿西口地下広場)

亡くなられた社会派の作家、松下竜一さんが発行されていたミニコミ誌「草の根通信」は長い間 多くの運動を続ける皆さんとの交流の場になっていました。
松下竜一さんが倒れられてから支援者の皆さんの手で発行続けてきたこの「草の根通信」は 残念ですが通算380号になる7月号で休刊になるようです。
私は 「草の根通信(第373号・12月号)に下記の西口の事を書かせていただきました。

「1969年新宿西口地下広場そして現在の地下広場」大木晴子

 1969年7月14日、私は昼食を済ませ勤めていた出版社の方へ歩き出しました。会社が見える路地に入ると社から出てくる三人の背広姿の男性に囲まれ「山本晴子さんですね。」そう尋ねられました。そして、一人が胸ポケットから白い紙をテレビドラマのワンシーンのように広げ「逮捕令状です。」と見せられました。そうです新宿西口地下広場が地下通路にかわり、道交法違反で逮捕令状が出てしまったのです。
 悪いことをした覚えが無いので凄く落ち着いていた私は、会社には戻らず持っていた財布とハンカチだけで同行しました。会社の入り口で心配そうに見ている編集者に軽く会釈をして新宿署へ向かいました。
 パトカーに乗ると頭の中で「黙秘します・黙秘します」繰り返し練習していました。心配していた会社に残した荷物は、社の皆さんが直ぐ近くにあった運動関係の書物を扱っていた「ウニタ書店」のおじさんの所に預けてくれました。仲間の住所録が無事で良かったと、いま考えてもホットしています。
 私たち東京フォークゲリラは、この年の2月から新宿西口地下広場で毎週土曜日の夕方からフォークソングを歌い反戦意思表示をしていました。地下広場を行き交う人たちと一緒に歌い、戦争のことアメリカがやっていること日本の政府がベトナム戦争に加担していることなどみんなで語り始めたのです。
 フォークゲリラの仲間達を囲み人びとの輪は、20〜30人ぐらいの小さな集まりでした。回を重ねる度に、人びとの輪は大きくなり100人ぐらいになった頃、警察官に数名が排除された事が大きく報道されました。
 その翌週の5月8日土曜日、私は赤いビニールケースに入ったギターを抱え新宿駅の西口地下広場に通じる階段を降りると、そこはいつもと違う地下広場になっていました。
 前の週に広場を通路に変えてしまった国家権力は暴力で若者達を追い散らしその事を、テレビや新聞の報道で見た人たちが「何があるんだ」「警察のやった事はおかしい」と様々な思いで広場に集まっていました。
 私は、たくさん人がくるだろうと予測はしていましたが、あまりの多さに体が震えました。
 ギターを抱えた数人の仲間と改札口を出ると、人々の動きは私達と同じ方向に流れ始めました。交番に近い角柱を背に私達は、ギターを弾き反戦フォークソングを歌い始めると、みんなは池に石を落とした時に出来る波紋のように座り始めました。広場は人でうまり歌声は、だんだん大きくなっていきました。輪のまわりでは、話し合いをする人のかたまりが幾つもでき、通路は広場にもどり、人々は生き生きと自分の言葉で話し始めました。

 「今のうちだけだ、所帯でも持ってごらん。子供でもできてみろ、デモなんかできないないぞ」と男は言った。「おじさん、それは違うよ。子供ができればもっと平和な社会を考えるし、頑張るよ」と若者が応える。地下広場のあちらこちらで人々の語らいがうまれていきました。反戦フォークを歌う若者を見ながら、はじめは遠くにいた父親ぐらいの人が次の週には100円の歌集を買い読んでいる。そして翌週には輪の中で一緒に歌っていた。お互いの生き方を認めながら、なお話し合おうとする力が漲り、新しい行動を始めようとする仲間に感心を持ち、一緒に参加しなくてもそこには、温かい眼差しがあった。私は地下広場で戦争反対の声が広がっていくのを肌で感じることができました。

 しかし、数ヶ月後「立ち止まらないでください」のアナンスの声と共に広場から歌声は消えてしまいました。
 あれから三十四年、私は昨年ベトナムを訪ねる旅で知り合った友と新宿西口地下広場で反戦の意思表示をする事を決め、毎週土曜日に立ち始めました。2月から休まず参加した私は、たくさんの人たちと向き合う時間を過ごしてきました。
 自分の考えや生き方を真剣に見つめて来た時間でもあります。
  参加した一人ひとりの醸し出す雰囲気が地下広場に広がり,心地の良い空間を作りだし、一緒に頑張れる力を満たして家路につく人々の顔はいつも輝いています。
 地下広場の丸い大きな柱を背に,思い思いの言葉が熱いまなざしと一緒に,通り過ぎる人びとに語りかけています。
 Y子さんが何日もかけてフエルト地で文字を切り抜ぬいて作った「あなたが生れてくる この国はふたたび せんそうができる 国になってしまった。」「殺すな」の文字。その一字一字にY子さんの思いが感じられ、胸が熱くなります。
 ご住職をしていらっしゃるHさんは、「自衛隊はイラクに行くな」行くなの言葉に赤いラインが。隣に立つ女性は「ブッシュにしっぽをふるために自衛官を戦場に送るのか」と。
 PEACE NOT WAR・加害者にも被害者にもなりたくない!!・武力で平和は創れない・海外派兵反対!・他人事と思うな!遠国でも同じ人間!・命は戻らない廃棄しょう!!自衛隊・日米安保条約・行動しょう!非暴力抵抗・戦争はイヤだ!イラク派兵絶対反対・戦争好きは許さない!一人だけ何時も少し離れた柱に立つ年配の女性が持つプラカードには「在日朝鮮人に対する暴力暴言は許しません。拉致被害だけ言うのでなく、それがおこった日韓の歴史を深く学んでいく事が大切。立場を置きかえて考える人間関係が平和への道」と書かれています
 私のプラカードは5月に出した意見広告文字、「殺すな」「武力で平和は創れない」そしてもう一面は、我が家の柴犬ジローの写真と殺すなマークに「戦争はイヤだ!ワン」と書いて子ども用に拵えました。
遠くから子どもが歩いてくると「戦争イヤだ!ワン」の方を見せます。
しかし、子どもたちの目がプラカードに止まる事はあまりありません。
子どもが興味をしめしたとしても一緒にいる親はなんの反応もなく通り過ぎていきます。なんと、寂しい光景でしょう。
 でも、私はあきらめない。自分のできる事を大らかに意思表示していきたい。
大人も子どもたちも自分の言葉で今の日本に言いたい事は、たくさんあるでしょう。いつもそう呼びかけます。
 8月18日の朝日新聞に地下広場の記事が出ると携帯にメイルが入りました。短い文章の中に思いがいっぱい詰まったその言葉は、「大木さんがしてくださっている行為に感謝しています。ありがとう。」でした。
 二人の男の子を育てている彼女は、今まで反戦運動など無縁の人。でも今の社会情勢の中で不安でたまらないのではないでしょうか。
 戦争がいつ起きてもおかしくないような歩みをはじめてしまった日本に不安を感じ始めたのだと思います。
 私は、このメイルを読んだ時、地下広場に立った事「良かった」と思いました。
 柴犬ジローと街を歩くと、いろいろな方と以前に増してお話しをする機会に恵まれています。
 「オレも、学生運動していた。」と輝いた顔で話す花屋さん。
  何時も仲良くしている近所の友は「同じ気持ち持っているのよ。戦争反対だし、でも何をしていいかわからないまま来ちゃって・・」と語り始めました。
 私は嬉しい「無理をしなくていいよ。今の自分に出来る事をしてね。優しい眼差しで頑張っている人を見ていてくれるだけでもいいのよ」と。 
 1969年、新宿西口地下広場が終わった後、私は教育の場に立ちたいと考えて保育学校へ。学業を終え幼稚園に就職が決まると十五歳違いの一番上の兄からお金では買う事の出来ない素敵なプレゼントをもらいました。
 「晴子 驕るなよ。教え育むという事は、親指と人さし指をピッタリあわせた時に出来るほんのわずかなすき間ぐらいなものだ。現象面だけでやったつもりになるなよ。結果は、10年、15年先に見えるものだ。謙虚な気持ちを持って頑張れ」と。その兄が記事を見て便りをくれました。
 「不景気が続くとだれもがいらいらし、それに便乗して妄動する人が出てきます。何時の時代でも同じです。そのような中で良心の灯をともし続ける人たちがいることを嬉しく思い、その内の一人が晴子であればなおさらです。」と。
 みんな、みんな思っている。戦争はイヤ!いまの日本は、どうなってるの!
 私は、自分を見つめる事が出来るこの反戦意思表示で一人一人が強くなり、同じ思いの人がいることを実感しお互いに頑張っていけると感じ合えることが素晴らしいと思っています。
 日本のあちらこちらに同じ思いの人たちが立ち始めたら、私たちはもっと頑張っていけると思います。
 自分が出来る事を探しましょう。それが、頑張っている人たちに優しい眼差しを向けることでも良いのです。大らかに優しく歩みましょう。
 私は、留置場の中で出会った人たちの事もよく覚えています。
「あんた、堅気の娘さんだね。」と話しかけてくれた売春で捕まっていたおばさんは、病気がうつるといけないとお風呂の入り方を教えてくれました。言われた通り、足だけを洗い湯船には入りませんでした。
また、同室になったのは、30歳ぐらいのきれいなお姉さんでした。壁を背に向き合って膝を立てて座っていると、高い天窓から「友よ」の歌が聞こえてきました。私は、仁王立ちになって窓を見上げました。
不思議に思っているお姉さんに西口の事や仲間が私を元気づける為に歌ってくれている事を話すと、「あんた、幸せな人だね」と、彼女を見ると涙を流していました。(おおきせいこ)

★文字数の関係で掲載されなかった部分を少し書き足しました。

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「私の三泊四日・・・サクランボの思い出」

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菊屋橋から出た日 1970年出版「フォークゲリラとは何者か」から。




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