俳句余想「梅が丘通信」琉球早春号  村雲 司

投稿日時 2009-03-14 13:10:25 | カテゴリ: 反戦・平和


(2009年2月ジュゴンの見える丘より撮影:大木晴子)

俳 句 余 想「梅が丘通信」琉球早春号(2009年2月25日)村雲 司
    
春の空特攻の道辿り飛ぶ

沖縄が近付くと日航機は南西諸島伝いに那覇へ向った。モニターに浮かぶその航空路を眺めながら、太平洋戦争末期に沖縄本島を囲む米艦隊に向った特別攻撃機のことを思った。白く輝くサンゴ礁が見えて那覇空港が近づく、あの時彼等にとって沖縄は何んだったか…。国を護るために飛んだのか、家族のために飛んだのか、沖縄の人々のために飛んだのか。

かけがえなきこの海の風光る

 ジュゴンの絵本まで書いたのに、今までジュゴンの棲む海・辺野古の海に行くことが出来なかった。二月はじめ沖縄平和ツアーに誘われ、この機会を逃してはと心に決めて、二十数年振りに沖縄に出掛けることとなった。辺野古が近付くとバスからの景色が既視感に溢れる。何度も想像した町の様子に胸の鼓動が高まった。

春辺野古青の階調遥かなり

初日は辺野古の海を前にして、無言で立ち尽くすばかりだった。
翌日船で辺野古崎から大浦湾まで案内して貰う。浅瀬の緑色が沖に向って次第に青さを増して行く、その階調の変容が美しい。この海を壊すに値するものがある筈はないと確信させる美しさだ。とても凪いだ日で希少な青珊瑚さえも船上から目視することが出来た。

海壊し遺跡穢して基地春塵

が、一度顔を上げれば陸地には米軍基地キャンプ・シュワブがひとつの街のように広大な面積を占拠していた。眼を逸らしても逸らしきれないもの、それが沖縄の米軍基地だ。そして、その基地を更に強化して新基地を造ろうというのである。計画される二本の滑走路は大きく海にはみ出る。まず工事によって土泥が海に流れ込んで多くの珊瑚を失うことになるに違いない。珊瑚礁にだけ生える海草を食べるジュゴンもそれによって大半が死滅しよう。既に滑走路のための突堤造りが、環境調査も終らぬというのに始まっていた。その周辺の海は明らかに濁っている。この辺りの海岸には貨幣として使われた貝も出土しており、そうした調査もなされぬままに、巨大な工作機械が唸りを発して動き出している。

長閑かなる銃撃の音に花冷える

浜には米軍の演習音が絶え間なく響いていた。心に刺さるような銃撃音もあるが、多くはトントンと太鼓でも叩くように妙に朗らかに聞こえる。その朗らかさ、日常性が怖い。

陽炎に揺れて揺るがず辺野古浜

 まずこの海岸に座り込みを始めたのは、おじいおばあたちだった。人々を養い続けてくれた海。陸地が焼き尽くされた沖縄戦の後も命を支え生活を支えてくれたこの恩ある海を壊させまいと座ったのだ。以来十二年余が経つ。その一人、辺野古の心棒のような「嘉陽のおじい」の話しを聞いた。おじいは終始笑顔で希望を語り続けた。「負けるためにやってるんじゃない。みんなで幸せになりましょう」と笑いかける。その潮風に鍛えられた力強い表情に励まされた。

春眩しやがてジュゴンの群れる海

 大浦湾を見下ろす高台に登った。「ジュゴンの見える丘」と呼ばれている。辺野古の餌場へと湾を横切って泳ぐ姿が、昔は多く見られた場所である。残念ながらその姿に会うことは出来なかったが、光り輝く海原は数十頭のジュゴンが群れ泳ぐようすをまざまざと目に浮かばせた。上陸用舟艇が珊瑚を踏みにじり、銃撃音が海にこだまするようなこの悪しき環境が排される日を思う。沖縄全体が自由交易区となり自然保護区となり、更に無防備地区となるなら、この丘も辺野古の町もアジアから訪れた人々の笑顔で満ち溢れるに違いない。
名護市の書店に「琉球自治州構想」という小冊子を見つけて購入した。米国と日本による複雑に絡む二重支配下でも、自立を摸索する情念は燃え続ける。

琉球の情念の緋や寒桜

 まだ二十代の頃、沖縄復帰運動が大きく盛り上がっていた時、沖縄出身の友人に向って「沖縄は独立すればいいんだ」と軽々しく言って、烈火のごとく怒られたことを何時までも忘れることができない。「沖縄のために何かをやっている者以外に、そのことを口にすることは出来ない」と叱責された。今度の旅では、丁度寒緋桜が島中に咲いていた。濃い緋色でじっくりと俯き加減に咲く花の姿が目に焼きつく。ぱっと明るく咲いて、あっさりと散っていくソメイヨシノの軽薄さを思った。沖縄の犠牲に、尚も甘んじている自分の軽さに重なる。

春の虹「スペインレストラン・ハワイ」のある島

 複雑な名前のレストランがあった。バスの中から眺めただけだが、直ぐにメモしたから多分間違いはないと思う。移住した人が帰って来て、ハワイで学び取ったスペイン料理の店を開いたということなのであろうか…。沖縄の地球上の位置はまさしく文化文明の交差点である。異文化が融け合って新たな文化が生まれる。琉球王国が五百年以上も続いた理由がそこにあると思う。しかし今、文化の交差点は米国と日本の支配の交差点と化している。

主亡き平島丸ひとり春の月

「ひさ坊」と愛称された船長の船が一隻だけ突堤に繋がれて揺れていた。船名は「平島丸」。辺野古崎の目と鼻の先に浮かぶ小島の名前である。それでも分かるようにこの海を愛して止まず、おじいおばあたちの抵抗を支えて来た船長だ。しかし、昨年病気で亡くなってしまった。他にも座り込みを続けたおじいやおばあの何人かが亡くなった。国家と対峙する抵抗は消耗戦である。税金に裏付けられた国家に勝つためには大きな犠牲が強いられる。

花時も樹林の奥の鉄茨

 平和ツアーは辺野古を中心に島内で抵抗する様々な人たちを訪ねた。北部の高江には米軍ヘリ訓練地が六ヵ所も造られようとしていた。新たな鉄条網の広がりを許してはならない。そして何時か、島中から全ての鉄の茨を刈り取らなければならない。

俳句余想「梅が丘通信」冬の月号


(2009年2月辺野古で撮影:大木晴子)




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