『鈴木一誌・エッセイ』第四回 紙という鏡
投稿日時 2009-05-31 02:20:25 | カテゴリ: エッセイ
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『鈴木一誌・エッセイ』第四回 紙という鏡
雑誌連載中からおもしろいと噂が高まり、これは絶対にベストセラーになるといった風評は、当てにならないものだが、筋書きどおりベストセラーになった福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)は、保証付きのおもしろさだ。『本』連載中から毎月楽しみにしていたのだが、最終回が手もとに届く前に、単行本が、その最終回をも収録するかたちで刊行されたのにはおどろいた。出版社は、ノドから手が出るほどベストセラーがほしかったのだろう。 その福岡さんが、「混ぜる」行為に懐疑心をもとう、との文章を新聞に寄せていた(08年3月8日付『朝日新聞』朝刊)。出だしはこうだ。福岡さんが、京都の高級料理店の関係者に、つくね汁の精妙な味をほめたとき、総料理長は、はばかるように「練り物は料理としては本来ごまかしなのです」と返した。 福岡さんの筆は、この「練り物」をキーワードに、一気に一連の食品問題におよぶ。話題の毒ギョーザも偽装挽き肉も「練り物」ではないか。名物まんじゅうもチョコレートも「練り物」だったなぁ、と読み手の頭も回転していく。狂牛病を世界に拡散させた肉骨粉も、病死した家畜の死体を混ぜた「練り物」だったし、サブプライム債権も、不良債権を少し混ぜた「練り物」だったはずだ・・・・、こう記述は伸びていく。 ブックデザインというしごとがら、製紙メーカーや洋紙販売代理店のひとと会うことも多い。マスコミをにぎわしている古紙の配合率問題では、紙関係者はいちように頭を抱えている。たとえば商品名である。「モダニィR100」というように、古紙の配合率がズバリ商品名となっているものは、すべて商品名ごと改変を迫られている。宣伝も打ちにくいし、見本帖も作り替えなければならない。 古紙を配合したり、農作物の残渣(ざんさ)、例としてはサトウキビの繊維バガスなどを利用した<エコロジー・ペーパー>と呼ばれる商品群が認知されたのは、東京都の青島都知事以降らしい。青島さんが、<エコロジー・ペーパー>の名刺を使っていない会社との付き合いは一考する、と言ったとか。1990年代なかばのできごとである。やがて、古紙を配合している紙は白さが不足するはずだ、とみなが思い込むようになる。優秀な技術によって古紙を配合しているにもかかわらず、十分に白い紙は、わざわざ着色して白さを減じるという倒錯が生じる。 「古紙100パーセント」配合がすばらしいできごとだとしよう。ならば、みなが「古紙100パーセント」を求める権利があるわけだ。では、その古紙はどこからやってくるのか。わたしたちの身のまわりにある紙は、全量が回収・再生されているのではない。トイレットペーパーは流され、ティッシュペーパーは捨てられる。ケチャップやソースまみれの紙ナプキンは、全量を回収してもいないのに、「古紙100パーセント」を求めつづけるのは、なにか変ではないか。 紙は、究極の練り物だ。なにしろ、紙の発明そのものが、ボロ布や麻、古くなった漁網などを「ごちゃ混ぜ」にするリサイクル行為から始まったのだから(犬養道子『本 起源と役割をさぐる』岩波ジュニア新書、2004年)。紙はいつの時代も、その平らな面によって、わたしたちの意識を鏡のように映しだしているのかもしれない。古紙配合率の問題では、製紙業界の体質の古さを笑ってすますこともできようが、トイレットペーパーを流し、ティッシュペーパーを捨てていながら、「古紙100パーセント」を夢見たわたしたちにも責任があるのではないか。紙という練り物は、わたしたちの幻想をも、そこに練りこんだのである。 グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
(上下ともベトナム・撮影:大木茂)
『鈴木一誌・エッセイ』第三回 『鈴木一誌・エッセイ』第二回 『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』NO107(2008年04月発行)に 掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。 写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。 09-05-31(おおき せいこ)
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