『鈴木一誌・エッセイ』第五回 寛容のデザイン
投稿日時 2009-11-16 00:04:34 | カテゴリ: エッセイ
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『鈴木一誌・エッセイ』第五回 寛容のデザイン
欧州東西の壁が崩れた直後のベルリンに行ったことがある。1990年の1月で、検問所チェックポイント・チャーリーはまだ健在、一定金額の西ドイツマルクを強制的に東側通貨に換金させられた。ついこのあいだ、以来、4度目となるベルリン訪問をした。写真家・荒木経惟さんの写真展が開かれたからだ。ドイツは、近代日本におけるグラフィックデザインの手本であり、書店の充実をふくめて、参考になることが多く、折りあるとベルリンに立ち寄る。<ビロード革命>後のベルリンは、首都として再構築されつつある。市街のあちこちで大規模な再開発がおこなわれ、新たな美術館のオープンもあり、訪れるたびに目を見張る。どう変わっているのか、これも、ベルリンを訪れたくなる理由だ。 ベルリンでは、写真家の古屋誠一さんに会った。古屋さんは、現在はオーストリアのグラーッ在住だが、ベルリンに壁があったころは、しごとで東ベルリンに居住しており、ひんぱんに検問所を往還していた。彼の話では、現在ベルリンには400から500の美術館やギャラリーがあり、それら発表の場を目指してぞくぞくとアーティストが集結中だそうだ。ベルリンは、欧州の他の大都市に比べて家賃がかなり安く、そのせいでギャラリーの数も多い。だがその家賃の安さも<西側>の基準であって、従来から住みつづけている<東側>のひとびとには、耐えられない値段になりつつある。緩慢ではあるが、<東側>だった人間がベルリンから脱出せざるをえなくなっている・・・・。 古屋さんのうしろについて、フリードリッヒ大通りを歩く。「この辺はなんにもなかったなぁ」「あ、これは作り替えた」「ここの段上はまだロシア関係の建物のままだ」と、古屋さんの説明が、風にのって耳に届く。「ここに壁があった」。古屋さんの目には、20年以上前の分断された荒野が見えていると感じられた。 一部があえて観光用に残存させられているものの、また地図で確かめることはできるが、もはや観光客にとって、壁は消失している。それでも、ベルリン国立歌劇場の座席に身を沈めながら、この華麗な劇場も1989年までは東側に属していたのかと気づき、奇妙な感じがする。しかし、住民にとってはどうなのだろう。<どちら側>の住民だったか、との意識はまったく消えたのか。いわば記憶の壁はなくなったのだろうか。 「戦火が収まりきらない東チモールに派遣された国連平和維持軍を統括し、シエラレオネでは国連平和維持活動の武装解除部長として何万人もの武装勢力と対峙した。アフガニスタンでも日本政府の代表として同じく武装解除に取り組んだ経験がある」(『武装解除 紛争屋が見た世界』講談社現代新書、2004年)自己のキャリアをこう記す伊勢崎賢治さんは、世界各地の紛争を平和的に沈静化させてきた、日本で数少ないプロフェッショナルだ。彼は同書で、「戦後復興における民主主義構築において、最大の難関は過去の遺恨への寛容の形成である」と書く。いささか大ざっぱに言い換えるならば、利害が複雑に入り組んだ地域で武装解除をするには「あなたの過去の罪は問わないから、とにかく武器を捨てろ」と言わざるをえないわけだろう。それこそが「民主主義構築」への第一歩なのだ。だが伊勢崎さんは、平和のためとは言いながら、ひとびとは<彼>の過去の罪をほんとうに忘れられるのか、と問うのだ。じっさいに、両親を殺された子どもと、その両親を殺した少年兵士が、学校で机を並べることもあるのだと言う。 <どちら側>の住民だったかとの意識は、長く残るのではないか。ならばなおさら「遺恨への寛容」は越えがたいハードルに思える。しかし、だからこそ寛容のデザインが必要な時代なのだろう。すっかり<非寛容>の雰囲気に染まってしまった日常のなかで、そう感じる。 グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
(上下とも1990年5月撮影:大木茂)
『鈴木一誌・エッセイ』第四回
『鈴木一誌・エッセイ』第三回
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』NO108(2008年06月発行)に 掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。 写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。 09-11-15(おおき せいこ)
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