『鈴木一誌・エッセイ』第6回 考えるための道具
投稿日時 2010-03-25 17:29:06 | カテゴリ: エッセイ
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『鈴木一誌・エッセイ』第6回
考えるための道具
水俣病のドキュメンタリーで知られる土本典昭監督が亡くなった(二〇〇八年六月二四日)。「肺ガンではないか」との診断があってから、ほぼ一か月半という早い旅立ちだった。肺ガンがすでに脊髄に転移していたようだ。水俣病の実相を記録し告発した土本さんは、人類の恩人なのだが、その恩人を病によって苦しめているのは、理不尽だと思えた。いっぽう、観客といういささか無責任な立場からは、土本さんがこの時代にいてくれてよかった、とつくづく思う。土本なる才能が、水俣病を撮っていなければ、と考えるとゾッとする。もしも〈天の配剤〉があるならば、水俣病に土本監督を、三里塚には小川紳介監督を割りふった配置に感嘆するほかない。そのふたりをガンが襲うのだから、〈天の配剤〉を恨みたくもなる。 これまでにも、水俣病に匹敵した公害病は数多くあったろうし、将来もありつづけるのだろうが、記録され描写され公開されなければ、その公害病は存在したことにならない。どれほど多くの公害病が、かたちの定まらなさをいいことに、隠蔽されてきたことだろうか。水俣病は、土本らの力によって可視化された。 講演のなかで土本さんが、四大公害事件と言われるものをふくめていろいろ公害病があったが、「水俣だけが突出していろんな表現にめぐまれている」【1】と語っている。なぜ水俣なのか。大きな理由として土本さんは、石牟礼道子さんの存在をあげる。人口三万数千人の水俣市によくぞ石牟礼さんがいてくれた、というわけだ。「あの方(石牟礼さん=筆者注)が存在したか、しなかったかでは、水俣の歴史ががらりと変わったんじゃないか」【1】。 〈天の配剤〉は、土本を水俣にテレビの仕事でおもむかせる。一九六五年ころだ。土本たちのクルーは、何気なく、庭先で日なたぼっこをしている母子をキャメラに収める。ここで問題がおこる。その子どもが胎児性水俣病だったため、母親は、「胎児性のわが子を盗み取りされたと理解し、その口惜しさもあって、思いのたけの罵声を」【2】土本に浴びせた。その非難の声は、「決してやわらぐことなく数分、いや十数分、つづいたであろうか」。「私はいつもこの日の出来事につれもどされ、それを避けるわけにはいかないのだ」【3】。 〈天の配剤〉は、土本をいったん「おでこをすりむいた男」【1】にする。土本は、いくら謝っても許してもらえなかった体験などをとおして、「撮れない水俣」を身体化していく。二十世紀の人類が〈自然〉に加えた重大な改変が、核と有機水銀だった。両者は、生命に与える影響が予測できない点でも共通している。ともに、〈見えない〉のだ。「不可視の“社会の病い”としての水俣病」【3】を可視化しようとすること自体が背理なのだが、その不可能さを掘り下げて生まれたのが、『水俣──患者さんとその世界』(七一年)である。努力と気迫が、可視的な傑作を生んだのだ。そんな表現者を、水俣や不知火海という風土が呼んだようにも思える。 土本さんから聞いたことばだ。「運動しているときは撮るな。撮るときは運動するな」。その発言の背後には、映画は見られたあとで、観客ひとりずつのなかで運動がおこればよい、との信念がある。だとすれば、映画は、見ようとする観客がいなければ、いまだ不可視のままだということになる。土本さんの座右の銘を引いておこう。 「映画は、考えるための道具である」
1=『映像を記録する 『水俣──患者さんとその世界』』人文研ブックレット5,中央大学人文科学研究所、一九九七年) 2=(土本典昭『わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録』ちくまぶっくす、一九七九年) 3=(土本典昭『水俣映画遍歴 記録なければ事実なし』新曜社、一九八八年) グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
(上下とも2010年1月沖縄にて撮影:大木晴子)
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「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』NO109(2008年08月発行)に 掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。 写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。 10-03-25(おおき せいこ)
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