『鈴木一誌・エッセイ』第8回 〈当たり前〉の深さ
投稿日時 2010-06-26 00:03:22 | カテゴリ: エッセイ
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『鈴木一誌・エッセイ』第8回 〈当たり前〉の深さ
エンピツが好きだ。つぎのしごとに取りかかる幕間にエンピツを削る。カッターナイフや小刀で角を削いでいく。気持ちにゆとりがないときには、削りすぎたり、芯を尖らせようとして折ってしまう。エンピツ削りは、こころのありようを表わす。エンピツ削り器には任せられない。エンピツにも「賞味期限」があるようで、年月を経た製品は、黒芯の乾燥がすすむせいか、削っていて折れやすい。 事典を調べると、エンピツの軸木にはシダー材を使用とあるが、日本製とドイツやスイス製では、削り心地がちがう。国産はサクッと柔らかいが、欧州製には粘りがありやや堅い。木材の色も、国産が赤みを帯びているのに対し、欧州モノは白っぽい。エンピツの祖先は、古代のギリシア、ローマにまで辿れ、エンピツが、軸木で黒芯を固定した現在のスタイルになるのは、一九世紀末から二〇世紀にかけてだそうだ。 国産と外国産の品質をたやすく比較できないのは、〈書きやすさ〉〈削りやすさ〉の基準そのものを、ひとびとが長い年月をかけてはぐくんできたからだ。多くの著者や編集者がそうであるように、わたしも2Bの愛用者だが、同じ2Bでも、国産のほうが柔らかい気がする。その地域ならではの〈書きやすさ〉〈削りやすさ〉があるのだろう。 エンピツを削りながら考える。鉱物質と樹木との絶妙な組み合わせからできているエンピツは、尖った中心点しか使わない。輪切りにした面積で言えば、九割以上を捨てている勘定になる。紙に触れる先端がもたらす筆触を、周囲の芯と木が支えている。誰も、捨てている九割を無駄とは言わないだろう。 関川夏央さんの本だったか、訪問者が北朝鮮の工事現場から一本のクギを拾ってくる話があった。一本のクギは、資源がどのくらい枯渇しているのか、生産現場の士気はどうかなど、さまざまな〈情報〉をもたらしてくれるらしい。 ありふれたエンピツもクギも、入手不能になればどれほど困るだろう。同じようにありふれてはいるが、想像力を掻きたてる品物にゼムクリップがある。財布の小銭のように、ゼムクリップもまた、机の上で増えるときは急に集まり、減るときはあっという間になくなる。ゼムクリップひとつずつは、だれの所有物なのかはっきりしない。どこからかやってきて去っていく。生き物のように世間を渡り歩いている。 金属クリップの歴史も古く、東ローマ帝国に淵源をもち、ひとつずつ手作りの貴重品だったので、皇帝や上流階級に属する人間しか使えなかった、とウィキペディアは記す。文書が、統治の道具だったせいもあるだろう。「Q」の字に似たゼムクリップが世に出現するのは、エンピツと同じ、19世紀末から20世紀にかけてだ。文書を綴じるゼムクリップにも、金属との接触の歴史が潜んでいる。 ふと考える。世界でいくつの国の国民が、自国産のエンピツでモノを書けているのだろう。書きやすいエンピツをつくるには、いくつもの条件が必要なはずだ。自国産のエンピツでモノが書けるのは、途方もなくしあわせなのではないだろうか。書き味は、文字の形態や湿度や気候などが複合された結果だからだ。〈当たり前〉は、けっして当たり前ではないのだ。ではクギやゼムクリップは、はたして国産なのだろうか。グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
(2009年1月23日鈴木一誌デザイン事務所にて撮影・鈴木さんがこれまでに使われたエンピツ:大木晴子)
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「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』111号(2008・12・01)に掲載されたエッセイを 筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。 写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。 10-06-26(おおき せいこ)
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