『鈴木一誌・エッセイ』第9回  回り回って

投稿日時 2010-09-14 22:09:15 | カテゴリ: エッセイ



『鈴木一誌・エッセイ』第9回
   回り回って

 二〇〇八年師走のことだ。テレビニュースは、日本人科学者三人が出席したノーベル賞授賞式のようすを写している。ノーベル賞委員会のプレゼンテータが、授賞理由を日本語でスピーチするという〈異例の対応〉をしたと伝え、いささか頼りない日本語の発音が流れている画面を眺めながら、十年近く以前の、スウェーデンにまつわる体験を思いだしていた。書物の組版から印刷までが、金属活字や写真植字に頼らずに、パソコンを中心としたデジタル技術でなし得るようになったころのことだ。ある夜、東京のスウェーデン大使館でシンポジウムが開かれた。来日したスウェーデン文学者が、少部数の出版の可能性と意義を、実践を通じて静かに語った。会のあとは立食パーティーが控えていた。
 話の内容は、いわゆる〈オンデマンド印刷〉で、現在では街角でも見かけるサービスだ。ではなぜ、複写機や印刷機メーカーではなく、スウェーデン文学者が〈オンデマンド印刷〉について、わざわざ語らなければならないのか。かの文学者は、英語に押されて、スウェーデン語による文学の出版がむずかしくなっている、と言う。少部数を運命づけられている純文学は、ますます採算ベースに乗らない状況だ。そこで、少ない部数にすばやく対応できる〈オンデマンド印刷〉に活路を見いだそう、との趣旨だった。彼はさらにつづける。文学の新刊が当たり前のようにつぎからつぎへと出版される国は、世界を見回しても少ない。記憶があいまいなのだが、たしか「二十か国もない」と告げたのではなかったか。
 スウェーデンほどの大国でも母国語による文学出版が困難なのか、とおどろくと同時に、日本のことを考えざるをえなかった。母国語で新刊が当たり前のように読める幸福を、わたしたちはどれだけ噛みしめているのか。世界から忘れられがちな〈小さな〉国では、ごく限られたエリートとインテリだけが、外国語で文学を読めるのだろう。フーテンの寅さんなら「さしずめ、てめぇはインテリだな」とのたまうところだが、じっさいには、ふつうのひとびととインテリが出会う機会も滅多にないのではないか。
 授賞式でノーベル賞委員会が日本語への〈異例の対応〉をしたのは、演出や社交的なサービスからだけではない。英語の脅威を背景にした、母国語どうしの切迫したエールの交換だった気がする。想像だが、益川敏英さんの「記念講演は日本語で」という意向の背景には、「自分の研究は日本語で思考しているのに、なんで英語で発表しなければならないのか」との違和感が潜んでいる。
 『d/SIGN デザイン』というデザイン批評誌の責任編集をして、かれこれ八年になる。さまざまな著者に原稿依頼をしてきた。もちろん例外はいくつもあるにしても、がいして大学教員の書く原稿がおもしろくない。まずサマリーがあり、節ごとに論証を積みあげ、引用や注記で足許を固め、やがて一定の結論にいたる学術論文のようで、破綻がない。起承転結の「転」がなく、序破急の「破」がないとでも言おうか。
 思考の発露である文章にも、アメリカン・イングリッシュを基底としたグローバリズムが浸透しているのかもしれない。そもそも、この文章でさえ、米国製のパソコンとOSによって書かれている。回り回っているのだ。グローバリズムを非難してもはじまらない。〈当たり前〉を見直すことからしかはじまらない。国産エンピツのありがたさは、文学や出版にもつながっている。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)

2009年1月23日鈴木一誌デザイン事務所にて撮影:大木晴子
(ファンからのプレゼント。名前入り国産エンピツ)

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「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』112号(2009・02・01)に掲載されたエッセイを
筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
10-09-14(おおき せいこ)




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