『鈴木一誌・エッセイ』第17回 脆さの強さ
投稿日時 2012-12-03 21:33:22 | カテゴリ: エッセイ
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『鈴木一誌・エッセイ』第17回
脆さの強さ
開店間もない新宿東口・ヨドバシカメラの店頭に並び、米国アップル社のiPad(アイパッド)の予約をしてきた。一三番目だった。予約の受付初日の今日、全国の家電量販店で、似たような光景が見られたはずだ。 先日、米アマゾン社のキンドルは手に入れた。いっぱんには、このアイパッドとキンドルを「電子書籍」と見なす。平穏をむさぼっていた日本の出版業界にとって、「黒船襲来」だとも言う。電子書籍が普及すれば、紙の本が滅びると危惧する人びともいる。最近、出版関係の団体が催した〈電子書籍を考えるシンポジウム〉では、五〇〇を超える席が瞬時に予約で埋まったと聞く。関心は高く、浮き足だってさえいる。 ブックデザインを仕事にしていて、紙との付き合いは深いつもりだが、あらためて、紙とはつくづく不思議なものだと思う。脆いようでいて強い。強そうで脆い、適度なしなやかさが魅力だ。ティッシュペーパーの心地よさは、柔らかさからだけくるのではない。強靱さがなければ、ボロボロと崩れてしまうはずだ。油断して、紙のエッジで指を切ったひとも多いだろう。切った指の痛さは独特だ。食品などの包装にしても、紙のよさは、空気や湿度をよいあんばいで遮断しかつ流通させる点だ。光にしてもそうだ。混雑した飲食店でも、隣の客とのあいだに紙の仕切りがあるだけで、雰囲気が変わる。 [size=small]ある建築家から聞いた話では、住宅にはところどころに脆い場所をつくっておくとよいそうだ。脆さの前では、振る舞いがていねいになるからだ。たしかに、障子や土壁の近辺では、仕草に気を配る。いっぽう、疲れていて気ぜわしいときにかぎって、へやのあちこちに額をぶつけたりする。本も、紙一枚ずつの脆さゆえ、ページを繰るひとの動作と気持ちをしとやかにするのかもしれない。 鉄道や地下鉄の駅構内のデザインはずいぶんと改善されてきているが、素材はどうかと見ると、無味乾燥で強固である。ほかの公共スペースでも、プライバシーの保護もあって、空間を二者択一のように、画然と区切ってしまう。凶暴になりがちな人びとの気持ちを受け止めるには、紙のような脆さも必要ではないか。透けているのか透けていないのかの曖昧さに、社会の共通感覚が境界線を引いていくのだ。セキュリティーや防衛論議に通じる話かもしれない。 紙は、そこにあって当たり前と思われている。無くてあわてるのは、洟をかみたいときやトイレを持ちだすまでもない。まるで空気のような紙は、だからといって存在感がないのではない。空気が人間にとって不可欠であるように、だ。こう言えるだろう。人びとは危機に面して、はじめて紙の存在に気づく。消えはじめて、レコードの紙ジャケットやCDの歌詞カードを惜しむのだ。いまは、本であわてている。 同時に紙は、空気のような存在に形を与える。わたしたちが折々に抱く感情は、日記や短歌、俳句や川柳として紙に書き留められたとき、姿を地上に現わす。感謝のひとことはハガキに記されなければ可視化しない。写真の印画紙や印刷もまた、思いを紙に残す行為の延長だ。空気のようだからこそ紙は、人びとの見定めがたい心の揺らぎを写しとれるのだ。脆さは、脆さを理解する。 ワープロやメールも、紙に書くおこないの延長線上にあり、もはや空気のようになってしまった。電子書籍の成否は、空気のようになれるかどうかにかかっている。電子書籍が空気のようになるとき、本の世界はさらに拡張すると考えられる。 グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
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「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』120号(2010・06・01)に 掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。 写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。 (写真撮影:大木晴子・幼稚園で受け持った子どものお母さんから、折々に絵手紙が届きます。)
12-12-03(おおき せいこ)
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