『鈴木一誌・エッセイ』第20回 言葉ということば
投稿日時 2014-01-09 00:21:22 | カテゴリ: エッセイ
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『鈴木一誌・エッセイ』第20回 言葉ということば
「言葉」ということばは、不思議だ。なぜ、ことばと植物の葉が結びつくのか。たとえば英語の「word」にしてもフランス語の「mot」にしても、「葉」との関連を示す痕跡はどこにもない。世界中の言語を調べたわけではないが、「ことば」に「葉」のイメージを内包させた日本語は、特異なのではないか。 古典学者の西郷信綱は、『古事記』には「コトバ(言葉)という語が見いだせない」(『日本の古代語を探る』集英社新書、二〇〇五年)と書く。それは「『古事記』が、まだ文字のない口誦時代の伝統を踏まえているからだと考えていい」からだそうだ。さらに西郷は、古代社会では、口に出したコト(言)は、そのままコト(事)を意味し、言と事は未分化であったことを素描し、やがて傾向として、コトが事を現わすように片寄っていくにつれて、コトバが口頭語を意味するようになっていった、と簡潔に記す。この変遷を西郷は、「日本語の歴史において、文字のまだない世から文字のある世への以降を暗示する、すこぶる大事な論点」とする。 「コト」に「ハ」が付着し「コトバ」なる語へと変成していく背後には、文字の浸透があった。じっさい、文字をもった時代に編纂された『万葉集』では、書名に「葉」を進入させている。ことばに「葉」というイメージをもたらしたのは、文字である。紙上に書き連ねられた文字、ことに平仮名のすがたが、ひらひらと風にそよぐ葉を連想させたのだろう。はじめは、「言羽」「古度婆」などと表記した例もあったようだが、ことばが「言葉」として定着していく背景には、文字を葉っぱに見立てる「視覚の問題」がからんでいる。「紙上に書きつらねられた文字たちの姿を前にしたとき、その語を比喩的に植物の葉と受けとるのは、ごく自然の成りゆきではないかと思う」(同前) 詩人の茨木のり子さんのエッセイ集『言の葉さやげ』(花神社、1975年)を思いだす。「あとがき」に題名の由来が記されている。茨木さんは、かつて読んだ『古事記』歌謡の、「木の葉さやぎぬ 風吹かむとす」を「言{▲ルビ:こと}の葉{▲ルビ:は}さやぎぬ 風吹かむとす」と思いこんでしまっていたそうだ。「木の葉さやぎぬ」という唄は「謀反をそれとなく知らせた俗謡」らしく、出来事が起こりそうな予兆を木の葉のざわめきによって表わしているのだが、茨木さんは、なぜか「不穏の空気ありということを、「言の葉さやぎぬ」と捉えた古代人の感覚は凄いと感心していた」。さらに、まちがいに気づいたあとですら、「もしかしたら元の形は「言の葉」だったのでは……なんて馬鹿なことを考えている」。 世の中が文字をもつに至らない時代、ことばは、だれがいかなる場所で発話されたかがひとびとによって記憶され、現実世界と連繋していた。ことばは、ひとびとに覚えられることで、地面に根を張っていた。いっぽう「文字をもつ世」では、文字が記憶を代替する。竹簡や紙に記された文字は場所を移動し、どんな人物がどのような状態で読むのか、書き手が十全に制御することは不可能となる。転写され、複製が伝播をひろげていく。「詠み人知らず」なる概念は、「文字を持つ世」になって初めて登場したのだろう。 書き手と読み手の組み合わせが固定できないことばのあり方を、極限にまで推進したのが、現在のウェブ空間だろう。歌集を「ことの葉」になぞらえる紀貫之は、『古今集』「仮名序」に、「ひとのこヽろをたね{▲2文字傍点}として」と書いた。葉は、種があってこそ生い茂るのだ。わたしたちの「種」はどこにあるのか。 グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
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「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』123号(2010・12・01)に 掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。 写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。 (写真撮影:大木晴子)
14-01-09(おおき せいこ)
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