『鈴木一誌・エッセイ』第22回 人工と自然
投稿日時 2014-04-07 23:18:01 | カテゴリ: エッセイ
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『鈴木一誌・エッセイ』第22回 人工と自然 およそ二週間前、白内障の手術を両目にほどこした。いまは、これまでに比べて見えすぎる自分の眼にとまどっている。加齢性、つまりは老人性の白内障に気づいたのは、一年ほどさかのぼる時期だ。眼鏡店でメガネをつくり替えようと検眼をするのだが、なかなか視力が上がらない。病院で眼科を訪ねると、白内障がじょじょに進行中だとのことだった。身体が〈順調〉に老化していた。 医師と、いつ手術をするかの相談になった。担当医は「わたしも医者なので手術は好きですが、自分の両親がいまのあなたの状態だったとしたら、手術はまだしないですね」と言う。ならば、日常生活に重大な影響のない範囲で、視力低下のギリギリの地点まで行ってみようかと考えた。親にもらったからだをとことん持久させよう、というわけだ。さらにはデザイナーとして、白内障の進行を観察してみたいとの思惑もあった。 日を追うごとに、それこそ〈順調〉に視野がかすんできた。ことに利き目である右目が、酷使のせいもあってか、湯気で曇ったメガネ越しに周囲を見るようなありさまとなっていく。さらに、視野を曇らせている眼球内の澱のせいか、世界がかすかに赤味がかって見える。デザイナーは、いろいろな局面で色味の判断をする。たとえば、印刷所から校正刷りが出てきたときなど、右目をつぶり、見え方がまだマシな左目に頼るしかなくなり、配置や大小の関係はわかるが、インキの盛り加減を微細には把握できない、との自覚をもたざるをえなくなった。もちろん、小さな文字は見えづらい。暗い場所での視力低下もいちぢるしく、二〇一〇年末には、夜道ですれ違うひとに危うくぶつかりそうなケースが数回あり、入院を決断した。片目なら一泊二日、両目いっぺんになら三泊四日、と医師から告げられ、両目コースを選んだ。 手術は、ひとによってちがうそうだが、意識はあるし施術者の声も聞こえるなか、痛みを覚えることもなく、一〇分から三〇分で終わる。麻酔と注がれるさまざまな液体とでぼやけた視野の向こうで、光と色彩が氾濫する。光と色彩とで目のなかをかき回される感触だ。医師が、「つぎの患者さんを呼んでください」とかたわらの看護師に告げる。このとき、手術がぶじに終わったことを知る。 術後、数時間して、数種の目薬の点眼が始まる。無菌状態であった眼球への細菌感染をおそれるからだ。目薬をさすために手術した右目を開けなければならない。おそるおそる周囲を眺めてみて、おどろいた。世界が、これまでよりも明るく深い遠近感とともに飛びこんでくる。「マシな左目」と見比べても、見え方の鮮やかさは歴然としていた。自分は、これまでなにを見てきたのだろうか。 正確な手順はわからないが、眼球の上方に小さな切れ目を入れ、そこから水晶体を人工のものにすり替えているのだろう。人工の水晶体に交換した瞬間、すでに視野は確保されていたのではないか。手術直後、薄目越しに眼帯のガーゼが見えたからだ。わたしの身体は、人工のレンズを瞬時に受け入れた。〈自分の身体〉という境界線が揺らぐのを感じる。自身の身体は、どこまで人工物に置き換えられるのだろう。どの範囲までだったならば〈わたし〉はわたしでいられるのか、とも考える。ロボット技術は、なんためにあるのか。言うまでもなく、社会に有用なロボットをつくるためであるが、同時に、人体の仕組みを解明するためだとの意見がある。〈人工〉を〈自然〉に対立させるばかりではなく、両者がたがいを照らしだす地帯も広がっていく。 グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
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「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』125号(2011・04・01)に 掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。 写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。 写真撮影:大木晴子 14-04-08(おおき せいこ)
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