『鈴木一誌・エッセイ』第23回 キャンセルという観察点

投稿日時 2014-04-08 00:13:57 | カテゴリ: エッセイ



『鈴木一誌・エッセイ』第23回
キャンセルという観察点

 「キャンセル」ということばは、日常のなかでよく使われ、「ドタキャン」といった派生語を生みだしている。身近な「キャンセル」の意外な重要さに気づかされたのは、ロボット工学者・国吉康夫さんにインタビューしているときだった。国吉さんは、「ロボット技術は、重力や加速度をキャンセルしてきた」と告げる。それまでに実用化されたロボットのほとんどは産業用で、ロボットは、決められた位置でたとえば自動車のボディにリベットを打ちこまなければならなかった。ロボットのアームは、三次元の座標に向かって腕を移動するのだが、運動にともなう遠心力を〈ゼロ〉にしなければ正確な位置での作業ができない。重力や加速度を無いものとする、〈キャンセル〉が必要だった。産業用ロボットの歴史は、キャンセルの精度をいかに上げるかの積み重ねである。
 「ところが」と国吉教授は語る。遠心力をキャンセルされたロボットは、人間と同じような動作ができない。例として、寝た状態から起きあがる動きを考えてみよう。わたしたちは、「よっこらしょ」と言い、タメをつくりながら遠心力を利用して起きあがる。介護ロボットが、床に横たわっている人間を持ちあげるとき、ひととの呼吸が合わなければならない。人間と共存できるロボットは、「よっこらしょ」を共有しなければならない。
 「しかし」と国吉さんはつづける。ロボットに「よっこらしょ」と起きあがらせるのは思いのほかむずかしい。こうも言えよう。ロボットを研究することで、何気ない人間の動作がいかに精妙な仕組なのかがわかる。ロボットに「よっこらしょ」を学ばせるのは、遠心力のキャンセルをさらにキャンセルすることである。
 「キャンセル」を「無いものとする行為」と広く捉えてみると、生活のすみずみにまでキャンセルは浸透している。たとえば、われわれの眼球だ。ヒトの目は、対象を見ようとするとき、猛速度で微振動していて、一瞬も動きを止めない。だが、この振動しながらのスキャンによって、視神経の解像度では見えるはずのない微細な夜空の星までが視認できる。眼球の微震動をキャンセルしつつ、対象の静止を認識するのだ。
 持ち慣れない携帯電話をマナーモードにしておくと、全身が振動に過敏になるようで、身体のあちらこちらでブルブルとした震えを感じてしまう。そんなとき、人間の筋肉や神経はひっきりなしに揺れているのだな、と感じる。なにかのきっかけで、振動のキャンセルに失敗したとき、みずからの揺れに気づく。余震つづきで、揺れの感覚に付きまとわれているひとも多いだろう。
 ブック・デザインにも、キャンセルは満ちている。ページに正方形を配置するとする。ところが人間の目には、正方形は正方形に見えない。わずかにひしゃげた矩形に見えてしまう。重力の影響かもしれない。デザイナーは、〈正方形〉を読者に見せようとするならば、わずかに縦長の長方形を配置することになる。錯覚のキャンセルだ。同じ大きさの文字でも、明朝体よりもゴシック体のほうが大きく見える。ばあいによっては、ゴシック体が大きく見える現象を無いものとしなければならない……。デザインは、クリエイティブな営為だと思われがちだが、じつは視覚現象に対する細かなキャンセル作業の累積である。
 キャンセルとの視点から世界を見渡してみる。わたしは、危険度の凝視をキャンセルして生きてきた気がする。ならば、これからは、キャンセルをキャンセルしなければならない。だがどうすれば、それは可能なのだろうか。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)



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「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』126号(2011・06・01)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
写真撮影:大木晴子
14-04-08(おおき せいこ)




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