連載エッセイ・第14回
煮え切らないわたし
写真が好きなのか、写真機が好きなのかは判然としないものの、さっぱり上達しないという事態にもめげず、旅行にはかならずカメラをもっていく。だが最近は、シャッターを押していても、落ち着かない。デザイナーという職業からも、デジタルに馴染んでおかなくてはと思い、新しいカメラを携行していくのだが、フィルムカメラの簡潔さを懐かしむ気持ちが吹っ切れない。デジタルカメラでは、なにより編集作業がやりづらい。選び、並べるためには、けっきょくはプリントアウトすることになる。フィルムカメラならば、ベタ焼き(コンタクトシート)やスライドで一目瞭然だった。この億劫さも、キーボードと同じで、いつかは慣れるのだろうか。言えるのは、フィルムカメラとデジタルカメラそれぞれの有用性を冷静に比較する風潮は、もはやないということだ。
一時期、書店の一画を〈手書き本〉が占めていたことがあった。鉛筆で文字をなぞる「奥の細道」や「徒然草」などだ。日本国憲法を書かせる試みもあった。類書が類書を呼び、相当のボリュームで刊行されていたが、ふと気づくと、視界からいっせいに消えている。関係者によれば、「ある日、突然」売り上げが落ちたそうだ。大げさに言えば、ある日、沖縄から北海道にいたる全国の消費者が、手書き本を必要と思わななくなった、ということだろう。手で書くことには、老化防止など謳われていた効能があったとすれば、それらの機能が「ある日、突然」消滅したわけではない。
デジタルな映像世界に戻れば、現在のユーザーは、フィルムであれデジタルであれ、デジタル処理された紙焼きを手渡されている。印刷物にしても、デジタルな工程を経ていないものは、もう存在しない。接触する映像がすべてデジタル工程の成果なのだから、ユーザーは、知らず知らずデジタル画像に親しんでいく。スーパーマーケットのチラシの、野菜のシャキシャキ感を強調するのは、デジタル処理の得意分野だ。ジューシーさ、まったり感なども、デジタルに表現される。
シャープで色鮮やかなプリントが全国、全世界に行き渡り、デジタル画像への親和が浸透していく。なにが写っているかではなく、プリント(紙焼きあるいは印刷)された写真のトーン自体が、見る者の眼をデジタルに馴染ませていく。コンテンツの内容ばかりではなく、トーンもまたメッセージだとすれば、シャキシャキ感を強められた宣伝でないと購買意欲を誘われなくなっているのかもしれない。野菜らしさ、ステーキらしさ、ラーメンらしさが、電子的に反復される。視覚世界ばかりではない。
これまでパソコンを使ってでしかできなかった画像処理が、新しいデジタルカメラでは、写真機本体でできる。メーカーによって、「デジタルフィルター」「アートフィルター」などと呼ばれたりする機能では、水彩画タッチ、ポップアート調や白昼夢ふうへと画像が変成される。「ラフモノクローム」なるメニューは、まるで写真家・森山大道的で、苦笑する。音もまた、すでにデジタルなトーンに満ちている。これから、五感のデジタル化が進むのだろう。
[size=small]〈らしさ〉を共有する〈全国〉という名の巨大な一個の人間がつくられていく。さらに〈全国〉は、〈全世界〉という人間像へと変貌しようとする。では、野菜にシャキシャキ感を求めるのは、ユーザーの意思なのか、仕向けられたことなのか。受動と能動、両方向の運きが渦巻いている〈わたし〉とは、煮え切らない存在だ、そう自覚することからはじめるしかなさそうだ。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
『鈴木一誌・エッセイ』第十三回
『鈴木一誌・エッセイ』第十二回
『鈴木一誌・エッセイ』第十一回
『鈴木一誌・エッセイ』第十回
『鈴木一誌・エッセイ』第九回
『鈴木一誌・エッセイ』第八回
『鈴木一誌・エッセイ』第七回
『鈴木一誌・エッセイ』第六回
『鈴木一誌・エッセイ』第五回
『鈴木一誌・エッセイ』第四回
『鈴木一誌・エッセイ』第三回
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』117号(2009・12・01)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
(写真は、2012年8月ラオスで撮影:大木晴子)
12-09-12(おおき せいこ)
『鈴木一誌・エッセイ』・第13回
バランスのデザイン
およそ二〇年前、はじめてキーボードに触ったときのことを思いだす。マシンへと差しこんだフロッピーに名前を入力しようとするのだが、めんどうでしかたがない。たった数文字なのに、といまなら思うのだが、当時のあの億劫さはなんだったのか。
左不のキーが「QWERTY」と並んでいる、「QWERTY(クワーティ)配列」のキーボードを、多くの人間がそうであるように、わたしも使いつづけてきたが、この配列は、アメリカのタイプライターの歴史にさかのぼる。金属活字を叩きつづけるタイピストたちを調査し、各キーの使用頻度にもとづいて、おおざっぱに言えば、頻度の高いキーは中央に、低いキーは周辺に並べられたらしい。この配置に辿りつくまでには、メーカー間の熾烈な競争があった。QWERTY配列が成立したのは、一八八二年である。
一〇〇年以不も前のキー配列が、なぜコンピュータのキーボードに踏襲され、いまだに使われているのか。また、使用頻度の調査は、英語を前提にしたはずで、日本語とはなんの関係もない。にもかかわらず、日本語を打つわれわれまでがQWERTY配列を使っているのはどうしてなのか。このあたりの事情は、『キーボード配列QWERTYの謎』(安岡孝一・安岡素子、NTT出版、二〇〇八年)に詳しい。とりあえず、つぎの点を押さえよう。QWERTY配列は、いま日本語をローマ字入力するには、利点はほとんどない。キー配列の理由を考えても意味がなく、ひたすら覚えこむほかない。
キーボードは、一見、だれにでも操作できるわかりやすい装置に思える。使用者とコンピュータを介在させる標準的なインターフェイスとして、広く使われている。だが、キーボードには分厚い前提が貼りついている。タイプライターの入力装置をパソコンに援用したこと、英文の入力装置を日本語に流用したこと、ゆえにQWERTY配列には意味がないこと、などである。これらの前提を見ないふりをして、「ひたすら覚えこむように」とのなかば命令が、パソコン初心者の前に立ちはだかる。たとえば「A」が、なぜこの位置にあるのか、論理的に覚える手がかりはない。初心者は、ひたすらキーを探すことになる。これが、あのころの億劫さの正体だったのではないか。
二〇年このかた、キーボード配列はまったくと言ってよいほど変革されていないにもかかわらず、操作に慣れてしまった。キーを探して叩くことが楽になったのではなく、めんどうくささに慣れてしまった。そしていまでは、キーボードを手放せない。
慣れが、多くの前提を見えなくしている例は、身の回りにおびただしくあるはずだが、なかなか見えてこない。デザインの新しさとは、その慣れを見せてくれるものを言う。そのいっぽうで、慣れをまったく無視した新製品だとしたら、使いにくくて実用にならない。慣れと変革の微妙なバランスこそが、新しくも、古臭くも見せる。慣れのバランスを変えるとき、新たなデザインが生まれる、とも言えそうだ。
わたしは、さっぱりダメだが、多くのひとが、携帯電話で文字列を打つのに慣れている。そのうち、携帯電話のキー配列がQWERTY配列を凌駕するかもしれないし、キーボードをまったく必要としないインターフェイスが出現する可能性もある。慣れ親しんだ〈家族〉や〈家〉のイメージも、そろそろ使用期限を過ぎつつある気がする。〈国家〉はどうなのか。組み合わせを変えずにバランスを変える、そんな観点から、周囲を見回してみたい。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
『鈴木一誌・エッセイ』第十二回
『鈴木一誌・エッセイ』第十一回
『鈴木一誌・エッセイ』第十回
『鈴木一誌・エッセイ』第九回
『鈴木一誌・エッセイ』第八回
『鈴木一誌・エッセイ』第七回
『鈴木一誌・エッセイ』第六回
『鈴木一誌・エッセイ』第五回
『鈴木一誌・エッセイ』第四回
『鈴木一誌・エッセイ』第三回
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』116号(2009・10・01)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
(写真撮影:大木晴子)
12-05-16(おおき せいこ)
『鈴木一誌・エッセイ』・第12回
自由の行方
書物には、どうしても地図が必要な種類の本がある。かつては、地図製作にかかる費用はかなりのものだった。もちろん地図づくりの専門家に頼むのだが、現状をふまえながら精密な地図をつくるには、手間がかかった。その地図製作が、ちかごろ劇的に安くなった。理由は、カーナビの普及である。全国で使用可能なカーナビを発売するためには、津々浦々の地図情報が必須となる。カーナビの開発が、日本全国をデジタルな地図情報で覆ってしまった。この情報が、地図製作の現場に環流しているというわけだ。もはや最初から道路の線を引く必要はない。地図製作に参入するハードルも低くなった。こうして、地図製作がコストダウンされたのだが、いっぽうでは、日本にはもはや未知の道などないのか、との寂しさもぬぐえない。
気がつくと、アマゾンをはじめとするネット書店で本をかなり買うようになっている。理由はさまざまあるが、それはともかく、書店まで足を運び、ページの手触りを確かめずに買うには、やはり後ろめたさが付きまとう。ネット書店に不気味さを感じもする。「この商品を買った人はこんな本も買ってます」というオススメのなかに、買おうと思っている本が入っていたりするからだ。わたし自身が装釘した書物をすすめられたりして、苦笑することもある。
各種のカード類も、〈わたし〉という人物像を描きだしている。クレジットカードの履歴によって、どの店でなにを買い、イタリアンなのか中華なのか、食べ物の嗜好まで捕捉されているのだし、宿泊予約情報からは夜の行動までが露わにされている。レンタルビデオの情報は、アダルトビデオのファンなのか、ヤクザ映画のマニアなのかを明け透けにする。「スイカ」「イコカ」「パスモ」などの交通機関のカードも、個人の行動パターンを輪郭づける。
ネット上の検索も、無料でありがたいのだが、だれがどんな項目を検索したかは、個人情報として完全に守秘されているのか。いかなる項目にアクセスしたかがわかれば、個人像が浮かんでくる。サービスする側からすると、ユーザーの志向がわかれば、検索の支援ができることになる。予約や検索、レンタルやカード決済などの、ひとつずつは些細なデータを撚り合わせるシステムによって監視されたら、と想像すると怖い。
クルマでの走行データを、インターネットで情報センターにフィードバックするシステムがはじまっていると聞く。たとえば、どこで急ブレーキをかけたかのデータを重ね合わせると、どの道路の危険度が高いかがわかる。道路形状の改良や交通標識の改善に役立つらしいが、いっぽうでは、自由に道を走れなくなるのか、とも思う。道を走るのではなく、情報の上を走ることになる。
どの本を買うのかは、たしかに個人の自由なのだが、平らな野原をどう歩いてもよい自由とはちがう。「この商品を買った人はこんな本も買ってます」というほど一本道ではないにしても、選べる道は限られる。まず、これまでに接してきた本がわたしのなかに蓄積され、その蓄積がつぎに読む本を選ぶベクトルとなっていく。個的に蓄えられたデータを外部化したのがネット書店の顧客データだとするならば、買い物点数の増加と統計テクニックの更新によって、顧客像の形成はどんどん精緻になっていくだろう。つぎにどんな本を買うか、あるていど予測されるようになるのかもしれない。そのデータにもとづいて出版される時代になったら、なんとつまらない世の中だろう。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
『鈴木一誌・エッセイ』第十一回
『鈴木一誌・エッセイ』第十回
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『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』115号(2009・08・01)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
写真2012年1月13日撮影(柴犬ゆきと影遊びシリーズより:大木晴子)
12-01-13(おおき せいこ)
『鈴木一誌・エッセイ』第11回
〈わかってもらう〉こと
ハサミを買ってくる。早く使ってみたくて、まずハサミ自身に付いている値札の糸を切ろうとするが、刃先はもちろん値札に届かず、既存のハサミやナイフで切るはめになる。どんなに優れたハサミも、自身に付いた値札は切ることができない。この小さな教訓は、人生のさまざまな局面で姿を現わす。そもそも人間は、自身の顔を自分の肉眼で見ることはできないのだし、みずからの後ろ姿も、写真や鏡なしには目撃できない。
二〇〇八年の年末、築地魚市場が、外国人観光客がマグロのセリ市を見学するのを禁止した。ニュースは、立ち入り禁止のラインを越えるなどのほかに、カメラのストロボを発光させるのが原因だと伝えていた。たしかに、指先の動きひとつで巨額が動くセリの現場では、閃光がセリ人の眼を射ることは避けたいだろう。
ニュース映像は、外国人観光客の持つコンパクトなデジタルカメラが、ピカッピカッと光るさまを映していた。考えてみれば、世界に流通しているデジタルカメラのほとんどが日本製なのだから、事態は、外国人観光客のマナーよりは、ストロボを発光禁止にさせる操作をわかりやすくユーザーに伝えていない日本のカメラメーカーのせいなのではないか。カメラメーカーが、製品デザインはともかく、取扱説明書=マニュアルの編集とデザインをおろそかにしたために、セリ市の見学禁止を招いた、こんな因果が考えられる。観光立国を目ざす日本が、自国製品のせいで、思わぬしっぺ返しを受けた図に見える。まわりまわるのだ。
ハサミが自身の値札を切れないように、どうも〈自身〉というのは、やっかいでスッキリとしない存在のようだ。〈三里塚〉なる問題はいまだ持続していると認識していながら、国外には成田空港から出発しなければならないし、アメリカ合衆国を批判する文章を、リーバイスのジーンズをはいて、マイクロソフト社のワードでしたため、そのパソコンを駆動する電力の何割かは原子力発電から生みだされている。
しごとの関係で、中学の数学教科書を観察していて、おどろく。本文の〈階層〉が深いのだ。〈階層〉とは、見出しのレベルの多さである。〈階層〉が深いテクストとして悪名高いのが法律で、たとえば民事訴訟法では、「第二編 第一審の訴訟手続」→「第一章 訴え」→「第三節 争点及び証拠の整理手続」→「第一款 準備的口頭弁論」と降りてきて、ようやく個々の条文になり、さらに???と分かれている。つごう六階層からなっているわけだ。この階層の深さが、法律の取っつきにくさを演出し、外堀、内堀のごとく、ことばの砦を築き、素人を寄せつけない。
同じことが、中学の数学教科書でも起きている。生徒たちが読むのは、たとえば「3章 1次関数」→「2 1次方程式と1次関数」→「2 連立方程式の解とグラフ」と、三階層を下降した本文なのだ。階層を理解するとは、全体像の理解にほかならないのだが、いままさに数学を学ぼうとしている生徒に、全体像としての階層を当たり前の前提として押しつけている。こうした転倒が、あらゆる教科書で起きているのかもしれない。
ハサミが自身の値札は切れないとの小さな教訓は、こうも言い換えられよう。ハサミを使えるのは、ハサミを二挺以上所有する者だけに限られる。なぜならば、値札を切るためには他のハサミを必要とするから。法律や教科書の階層の深さは、すでにわかっている人間にしかわからない、との奇妙なジレンマの存在を告げる。知の格差の誕生である。〈わかっている〉ことを、他者に〈わかってもらう〉ことのむずかしさの前で、ブックデザインになにができるのか、試行はつづく。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
『鈴木一誌・エッセイ』第十回
『鈴木一誌・エッセイ』第九回
『鈴木一誌・エッセイ』第八回
『鈴木一誌・エッセイ』第七回
『鈴木一誌・エッセイ』第六回
『鈴木一誌・エッセイ』第五回
『鈴木一誌・エッセイ』第四回
『鈴木一誌・エッセイ』第三回
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』114号(2009・06・01)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
写真2002年春・ベトナム 撮影:大木茂
11-01-14(おおき せいこ)
『鈴木一誌・エッセイ』第10回
言葉の国産化
デザイン、ことに雑誌や書籍のデザインを、自嘲を込めて「切った貼ったの世界」と呼ぶことがある。任侠映画で見知った「斬った張ったの世界」のもじりで、たしかにエディトリアルやブックデザインでは、ひんぱんにゲラや図版を切って貼る。昨今はデジタル化の浸透で、「切った貼った」も減りつつあるいっぽう、モニターのなかで、あいかわらず〈切る=カット〉と〈貼る=ペースト〉を繰り返している。
切るには鋏が、貼るにはピンセットが必須だ。デザインには、鋏とピンセットが重要な道具だというわけだ。出番が減ったとはいえ、鋏とピンセットは、デザイナーにとっての精神的な拠り所だと感じる。長いあいだ勤めてくれたスタッフが独立する際は、使い慣れた鋏とピンセットをプレゼントする。二〇〇八年には、九年間いっしょにしごとをした女性三人が、鋏とピンセットを持って羽ばたいていった。
鋏とピンセットについて、日ごろ不思議に思うことがある。エンピツをはじめ、周辺には高品質な国産品が溢れているにもかかわらず、こと鋏とピンセットに限っては、これぞという製品に出会ったためしがない。鋏は「ドボ」や「アドラー」といったブランドのドイツ製だし、ピンセットもスイス製の「エレム」だ。どちらも、デザインの手本と仰ぐ国の製品であるのが象徴的だ。
理由はいろいろあるのだろうし、和鋏や毛抜きには上質のものがあるはずだが、ここでは、飛躍気味にこう言ってみたい。国産品で優秀な鋏とピンセットが見つからないのは、「デザイン」という言葉を日本語に翻訳できなかったからだ、と。明治期以降、デザインを、意匠、図案設計、商業美術など、さまざまに言い換えようとしてきたが、いずれも消えていった。「デザイン」なる概念をついに国産化できなかったゆえに、作業の要である鋏とピンセットを作り得なかった、という仮説だ。優秀な鋏とピンセットをつくろうとの意欲に駆り立てられなかったと言うべきかもしれない。
友人に、スポーツ・ジャーナリズムに詳しい編集者がいる。彼によれば、たとえば野球の記事にしても、アメリカの新聞と日本の新聞では、書きぶりが大きくちがう。アメリカの新聞では、一〇年後に記事を読んでも、ゲームの流れとポイントがわかるように書かれている。対して日本の新聞では、一〇年後に読むに耐えない。なぜならば、「亡き母へ捧げた逆転ホームラン」といったぐあいに、どちらかというと人間ドラマに関心が寄っているからだ。彼は言う。わが国へのスポーツ・ジャーナリズムの定着をめざして、自分はアメリカの新聞でゲームの記事を読む訓練をしておく。
テレビで大リーグの実況を見ると、日本のとは印象がちがう。個人の思い入れを振り払うかのように、淡々とゲームが進行していく。選手たちとともに、グラウンドという場もまた主役のようだ。ゲームとは、プレイヤーと場との遭遇によって起きる予想のつかないドラマだ。美技は、もちろん選手個人の功績なのだが、同時にゲームに属している感がある。場が主役だからこそ、市民は大挙して球場に駆けつけるのではないか。良い悪いではなく、わが国民は、〈ベースボール〉を〈野球〉に、〈ゲーム〉を〈試合〉へと国産化したのだ。
「デザイン」は、なぜ日本語に変換できなかったのか。同じように、身近な言葉の国産化の度合いを考えてみるのもよいだろう。略語化された「デモ」は、はたして国産化したのか、かたや「テロ」は国産化してほしくない……。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
『鈴木一誌・エッセイ』第九回
『鈴木一誌・エッセイ』第八回
『鈴木一誌・エッセイ』第七回
『鈴木一誌・エッセイ』第六回
『鈴木一誌・エッセイ』第五回
『鈴木一誌・エッセイ』第四回
『鈴木一誌・エッセイ』第三回
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』113号(2009・04・01)に掲載されたエッセイを
筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
写真のコラージュ:大木晴子
10-11-19(おおき せいこ)
言葉の国産化
デザイン、ことに雑誌や書籍のデザインを、自嘲を込めて「切った貼ったの世界」と呼ぶことがある。任侠映画で見知った「斬った張ったの世界」のもじりで、たしかにエディトリアルやブックデザインでは、ひんぱんにゲラや図版を切って貼る。昨今はデジタル化の浸透で、「切った貼った」も減りつつあるいっぽう、モニターのなかで、あいかわらず〈切る=カット〉と〈貼る=ペースト〉を繰り返している。
切るには鋏が、貼るにはピンセットが必須だ。デザインには、鋏とピンセットが重要な道具だというわけだ。出番が減ったとはいえ、鋏とピンセットは、デザイナーにとっての精神的な拠り所だと感じる。長いあいだ勤めてくれたスタッフが独立する際は、使い慣れた鋏とピンセットをプレゼントする。二〇〇八年には、九年間いっしょにしごとをした女性三人が、鋏とピンセットを持って羽ばたいていった。
鋏とピンセットについて、日ごろ不思議に思うことがある。エンピツをはじめ、周辺には高品質な国産品が溢れているにもかかわらず、こと鋏とピンセットに限っては、これぞという製品に出会ったためしがない。鋏は「ドボ」や「アドラー」といったブランドのドイツ製だし、ピンセットもスイス製の「エレム」だ。どちらも、デザインの手本と仰ぐ国の製品であるのが象徴的だ。
理由はいろいろあるのだろうし、和鋏や毛抜きには上質のものがあるはずだが、ここでは、飛躍気味にこう言ってみたい。国産品で優秀な鋏とピンセットが見つからないのは、「デザイン」という言葉を日本語に翻訳できなかったからだ、と。明治期以降、デザインを、意匠、図案設計、商業美術など、さまざまに言い換えようとしてきたが、いずれも消えていった。「デザイン」なる概念をついに国産化できなかったゆえに、作業の要である鋏とピンセットを作り得なかった、という仮説だ。優秀な鋏とピンセットをつくろうとの意欲に駆り立てられなかったと言うべきかもしれない。
友人に、スポーツ・ジャーナリズムに詳しい編集者がいる。彼によれば、たとえば野球の記事にしても、アメリカの新聞と日本の新聞では、書きぶりが大きくちがう。アメリカの新聞では、一〇年後に記事を読んでも、ゲームの流れとポイントがわかるように書かれている。対して日本の新聞では、一〇年後に読むに耐えない。なぜならば、「亡き母へ捧げた逆転ホームラン」といったぐあいに、どちらかというと人間ドラマに関心が寄っているからだ。彼は言う。わが国へのスポーツ・ジャーナリズムの定着をめざして、自分はアメリカの新聞でゲームの記事を読む訓練をしておく。
テレビで大リーグの実況を見ると、日本のとは印象がちがう。個人の思い入れを振り払うかのように、淡々とゲームが進行していく。選手たちとともに、グラウンドという場もまた主役のようだ。ゲームとは、プレイヤーと場との遭遇によって起きる予想のつかないドラマだ。美技は、もちろん選手個人の功績なのだが、同時にゲームに属している感がある。場が主役だからこそ、市民は大挙して球場に駆けつけるのではないか。良い悪いではなく、わが国民は、〈ベースボール〉を〈野球〉に、〈ゲーム〉を〈試合〉へと国産化したのだ。
「デザイン」は、なぜ日本語に変換できなかったのか。同じように、身近な言葉の国産化の度合いを考えてみるのもよいだろう。略語化された「デモ」は、はたして国産化したのか、かたや「テロ」は国産化してほしくない……。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
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『鈴木一誌・エッセイ』第七回
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『鈴木一誌・エッセイ』第五回
『鈴木一誌・エッセイ』第四回
『鈴木一誌・エッセイ』第三回
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』113号(2009・04・01)に掲載されたエッセイを
筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
写真のコラージュ:大木晴子
10-11-19(おおき せいこ)