『鈴木一誌・エッセイ』第18回
書店に行こう
わたしが住む町の駅前にあった書店がなくなってしばらくが経つ。駅の反対側には一軒あるのだが、行き帰りにフラリと寄るには遠い。こう書き出すと、「書店が減っている」という、なんども聞いた話かと思われるだろう。たしかに、統計上は書店の数は減りつつあるが、いっぽうで「駅前の小さな書店が元気だと思ってます」との発言がある。出版などマスコミ業界向けの週刊誌『文化通信』編集長・星野渉さんの見解だ。星野さんは、東京・西荻窪の颯爽堂{▲ルビ:さっそうどう}という駅前書店を例にあげて、こう語る。
「いつ見ても人が入っていて、終電近くに通り掛かると、目の前を歩いているお姉さんやおじさんが、スッ、スッと入っていきます。お酒飲んで酔っ払っていたり、疲れていたりしても、「ここに寄ったらなにか面白いものがあるんじゃないか」と思うようなお店なのです」(「出版業界の現状をどう見るか」『電子書籍と出版』ポット出版、二〇一〇年)。
さらに星野さんは、「おそらく「この本を探したい」と思って颯爽堂に行く人はいません」と話し、「これはオンライン書店と全く違う来店動機です」と告げる。本の中身を確認でき、拾い読みが可能な「リアル」書店ならではの強みだろう。売り場が広い大型書店に入るのは、気構えが要る。小さな書店ならば、グルリとひと回りすればよい。一瞥するだけでも、その日なりの本の状況が察知できる。「この本を探したい」と思って大型書店を訪れる客は、アマゾンなどのオンライン書店ユーザーと重なることになる。そうではない、本と不意に出会う面白さに焦点を当てれば、小さな書店ならではの可能性が生まれる。京都の三月書房を思い浮かべるひとも多いはずだ。
書店の便利な点はほかにもある。人との待ち合わせにつごうがよい。たがいに多少遅れても、本を見ていればよいので、間がもつ。待ち合わせ時間もしくは約束した訪問時間より早く目的地に着いてしまったときにも、ありがたい存在だ。これから人と会ってコーヒなどを飲むのだから、喫茶店やコーヒーショップに入るのも気が進まない。こんなとき、書店が目に入るとホッとする。
書店に入ったら、なるべく一冊は本か雑誌を買って出てこようと思っている。義務と思わずとも、たいがいは欲しい商品が見つかるのだが、見つからないこともある。もともと書店に入るのが目的ではなく、ついでだったにもかかわらず、欲しい本を探さねばと必死になることがある。約束の時間は迫ってくる……。欲しい本が見つからないのは、書店の責任ではなく、多くのばあい、自分が疲れてすぎているせいだ。
この本が欲しい、この本を読みたいと思うのには、そうとうの気力を必要とする。読書は、たしかに娯楽の側面をもつが、単なる受け身ではない能動性を要求する。ページを繰り、一文字、一行ずつ意味を辿っていく参加的な行為は、受動的だとされるテレビとしばしば対比されるが、読む行為ばかりでなく、本を選び買う身振りにも、個としての動機が求められる。たとえば病人の看護をした帰りなど、書店に入る気力も失われている、こんな体験は多くの人にありそうだ。「お酒飲んで酔っ払って」いても書店に入るおじさんは、活力はまだ十分にある。逆にこうも言えるだろう。書店に入って本を探す気力と余裕があるかどうかが、自身のコンディションの指針なのだ。
実物を見ずにアマゾンでいきなり買った本に外れが多い。新聞の書評を信じて購入した書籍も、的中率が低い。手に取り「読みたい」との気力を吹きこむとき、本は、〈わたしの本〉になるのではないか。書店に行こう。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
『鈴木一誌・エッセイ』第十七回
『鈴木一誌・エッセイ』第十六回
『鈴木一誌・エッセイ』第十五回
『鈴木一誌・エッセイ』第十四回
『鈴木一誌・エッセイ』第十三回
『鈴木一誌・エッセイ』第十二回
『鈴木一誌・エッセイ』第十一回
『鈴木一誌・エッセイ』第十回
『鈴木一誌・エッセイ』第九回
『鈴木一誌・エッセイ』第八回
『鈴木一誌・エッセイ』第七回
『鈴木一誌・エッセイ』第六回
『鈴木一誌・エッセイ』第五回
『鈴木一誌・エッセイ』第四回
『鈴木一誌・エッセイ』第三回
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』121号(2010・08・01)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
(写真撮影:大木晴子)
14-01-03(おおき せいこ)
「義母の想い出・・・・英語とカーディガン」大木晴子
1989年、義母は美空ひばりさんと同じ年に亡くなった。
外見が少しきつく感じるのだろうか周りの人たちから
「お母さん、しっかりしてらっしゃるから晴子さん大変ねぇ〜」とよく言われた。
その言葉と反対で義母は、理が通れば息子より嫁の私の味方をしてくれる人だった。
その義母の友人たちへ香典返しを届けた折りに初めて知ったことがたくさんあった。
我が家は家族で外食をしたり、店屋物をとる家では無かったから、義母は嬉しかったのだろうか。
隣に住む私たちのところで夕食をした話を楽しげに話していたと何人もの方から聞いた。
そして一番親しくしていた近所のおばさまは、義母の寂しい出来事を話して下さった。
話を聞いて、私の中で結びつく出来事を思い出していた。
当時、幼稚園に勤務していた私に義母は「晴子さん、幼稚園のバザーがあるでしょう。これを出して欲しいの」と
新品の素敵な男物のカーディガンを渡された。その時、とても不思議に思った。
でも、義母の鋭い眼差しに何も聞けずに黙って受け取った。
近所のおばさまは、「お母さん、苦労されたのよ」と話し始めた。
義父には英語圏に友人がいて深夜によく電話をかけていたそうだ。
義母は、隣室でわからない英語を聞きながら会ったことも無いその人を想像していたのでしょう。
贈られて来る誕生日プレゼントなどからいろいろなことを想像していたのでしょう。
そして、その想いは私にカーディガンを渡された時の眼差しだったのだと話を聞きながら母のことを想った。
時が流れて母が亡くなった歳に近づいた私は、最近このときの義母のことを考える。
それは今年の秋から家の中で 英語が飛び交う 生活が始まったからだ。
そして私は義母に何度も問いかける。「もう、いいですか。」と。
今度は「いいわよ!」と声をかけてくださることを願いながら・・・・。
12-12-07(おおき せいこ)
★義母と過ごした15年近くの間に、想い出が詰まっている。
ページでも書いたが、たいへんなこともあった。でも母と私は気があっていた。
幼い子どもと過ごす仕事を選んだ私は、子育てをされた母親の気持ちは少しはわかっていた。
大変な想いで育てた子を他人に託すのだから気持ちは複雑であるはず、
譲れるところはなるべく相談をして大きな買い物は母の知恵を借りた。
はじめは、嫁と距離を保った方が良いと考えていた母は、亡くなる数ヶ月前の入院先で
「晴子さん今日ね、看護婦さんに『毎日来る娘さんとよく似ていますね。』と言われたのよ!」
「私たち似ているのかしら」と嬉しそうに話した。その日、初めて母の入浴を手伝った。
細くなった背を流しながら一緒に涙も流がした。
何時もこの情景は私に優しさを満たしてくれる出来事の一つ。大切な想い出です。
『しのぶ寿司』・・・義母とのほろ苦い思い出 大木晴子
http://seiko-jiro.net/modules/news/article.php?storyid=559
『鈴木一誌・エッセイ』第17回
脆さの強さ
開店間もない新宿東口・ヨドバシカメラの店頭に並び、米国アップル社のiPad(アイパッド)の予約をしてきた。一三番目だった。予約の受付初日の今日、全国の家電量販店で、似たような光景が見られたはずだ。
先日、米アマゾン社のキンドルは手に入れた。いっぱんには、このアイパッドとキンドルを「電子書籍」と見なす。平穏をむさぼっていた日本の出版業界にとって、「黒船襲来」だとも言う。電子書籍が普及すれば、紙の本が滅びると危惧する人びともいる。最近、出版関係の団体が催した〈電子書籍を考えるシンポジウム〉では、五〇〇を超える席が瞬時に予約で埋まったと聞く。関心は高く、浮き足だってさえいる。
ブックデザインを仕事にしていて、紙との付き合いは深いつもりだが、あらためて、紙とはつくづく不思議なものだと思う。脆いようでいて強い。強そうで脆い、適度なしなやかさが魅力だ。ティッシュペーパーの心地よさは、柔らかさからだけくるのではない。強靱さがなければ、ボロボロと崩れてしまうはずだ。油断して、紙のエッジで指を切ったひとも多いだろう。切った指の痛さは独特だ。食品などの包装にしても、紙のよさは、空気や湿度をよいあんばいで遮断しかつ流通させる点だ。光にしてもそうだ。混雑した飲食店でも、隣の客とのあいだに紙の仕切りがあるだけで、雰囲気が変わる。
[size=small]ある建築家から聞いた話では、住宅にはところどころに脆い場所をつくっておくとよいそうだ。脆さの前では、振る舞いがていねいになるからだ。たしかに、障子や土壁の近辺では、仕草に気を配る。いっぽう、疲れていて気ぜわしいときにかぎって、へやのあちこちに額をぶつけたりする。本も、紙一枚ずつの脆さゆえ、ページを繰るひとの動作と気持ちをしとやかにするのかもしれない。
鉄道や地下鉄の駅構内のデザインはずいぶんと改善されてきているが、素材はどうかと見ると、無味乾燥で強固である。ほかの公共スペースでも、プライバシーの保護もあって、空間を二者択一のように、画然と区切ってしまう。凶暴になりがちな人びとの気持ちを受け止めるには、紙のような脆さも必要ではないか。透けているのか透けていないのかの曖昧さに、社会の共通感覚が境界線を引いていくのだ。セキュリティーや防衛論議に通じる話かもしれない。
紙は、そこにあって当たり前と思われている。無くてあわてるのは、洟をかみたいときやトイレを持ちだすまでもない。まるで空気のような紙は、だからといって存在感がないのではない。空気が人間にとって不可欠であるように、だ。こう言えるだろう。人びとは危機に面して、はじめて紙の存在に気づく。消えはじめて、レコードの紙ジャケットやCDの歌詞カードを惜しむのだ。いまは、本であわてている。
同時に紙は、空気のような存在に形を与える。わたしたちが折々に抱く感情は、日記や短歌、俳句や川柳として紙に書き留められたとき、姿を地上に現わす。感謝のひとことはハガキに記されなければ可視化しない。写真の印画紙や印刷もまた、思いを紙に残す行為の延長だ。空気のようだからこそ紙は、人びとの見定めがたい心の揺らぎを写しとれるのだ。脆さは、脆さを理解する。
ワープロやメールも、紙に書くおこないの延長線上にあり、もはや空気のようになってしまった。電子書籍の成否は、空気のようになれるかどうかにかかっている。電子書籍が空気のようになるとき、本の世界はさらに拡張すると考えられる。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
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「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』120号(2010・06・01)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
(写真撮影:大木晴子・幼稚園で受け持った子どものお母さんから、折々に絵手紙が届きます。)
12-12-03(おおき せいこ)
『鈴木一誌・エッセイ』第16回
大阪がおもしろい
関西方面に用事があって時間に余裕があるときは、なるべく大阪に寄る。京都に所用があるときも、宿は大阪にとることが多い。予約しやすくて、安い。大都会である点は限りなく東京と似通っているのだが、だからこそ、住み慣れた東京との差異が際だつのかもしれない。端的に言えば、国内なのにアジアを感じる。大阪という町全体には、時代に抗している、もしくは先駆けている気配がある。
といった感想も、所詮は観光客の勝手な思い込みだが、タコ焼きやうどんをはじめとして、食べ物が安くて美味しいのは事実だろう。そうそう串カツも、などと思いだしはじめるときりがない。大阪出身でいまは東京でデザイナーをやっている友人は、「東京には、高くて美味しいものは数あるが、安くて旨いものは少ない」としきりにこぼす。南北二・六キロにもおよぶ天神橋商店街のような、長大なアーケードも、東京ではあまり見ない。大阪のあちこちにあるアーケードを歩いていると、衣料品などもずいぶんと安く、この町はデフレの元祖なのではないか、と思えてくる。
話しぶりもおもしろい。エレベーターに乗りこんだ瞬間に「あつ」と発語し、料理を口に運んだ刹那、「うま」と言う。「暑い」「旨い」の省略だ。以下、「いた」「さむ」「まず」「から」「あま」などを耳にはさんだ。東京でなら「痛い」「寒い」「不味い」「辛い」「甘い」と三音で言うところを、大阪は二音で、発音も経済的だなぁ、と勝手に感心する。二音言葉が大阪発かどうかは確証ゼロだが、とりあえず耳新しい。
今年の正月も、妻と二人で大阪にいて、ふと映画館に入った。話題の『アバター』を3Dで見ようとしたのだ。隣には、女子高校生らしきふたりが座る。映画が始まってまもなく、彼女たちがヒソヒソと言葉を交わす。どうも、地球と宇宙ふたつの空間で並行して物語が進む設定がわからないらしい。どうするのかと注意していると、ひとりが携帯電話を取りだし、作品名を検索し、液晶画面であらすじを読みはじめ、ようやく納得したようで、もうひとりに説明している。
観客のマナーとしては失格にちがいないが、『アバター』を見る女子高生のすがたは、いくつかのことを考えさせた。『アバター』ていどのストーリーが飲みこめないほどに、映画文法に対するリテラシーが低下しているのか。そう思ういっぽう、気取りがない直裁さと言おうか、場所がどこであれ、わからないことを即座に検索しようとする態度は、近い将来のわたしたち自身の肖像かもしれない。
幼いころ、親に連れられて映画館に行き、「どうなっているの?」といちいち親にストーリーを聞いて叱られた。以来、自分ひとりでの理解を目ざすようになった。腑に落ちないことは、劇場パンフレットを買い、さらには映画批評で確かめた。映画館の闇は、観客ひとりずつを孤立させ、単独での理解をうながした。たとえ、それが誤解であったにしても。
いま、孤絶としての闇があっさりと破られつつあるのかもしれない。電子端末にサポートされながら、映画を見る時代がくるのだろうか。トゥイッターを入力し感想を周囲に散布しながら鑑賞する客の出現も近い気がする。液晶画面であらすじを読みながらの観客に、まだ東京では遭遇していない。映画の内容は、どこで見ても同一だが、観客は一様ではない。『アバター』が始まる前に、大阪市のPR映像が映された。大阪市は、外国籍をもつひとの比率が高く、国際的だと伝えていた。大阪はおもしろい。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
『鈴木一誌・エッセイ』第十五回
『鈴木一誌・エッセイ』第十四回
『鈴木一誌・エッセイ』第十三回
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『鈴木一誌・エッセイ』第五回
『鈴木一誌・エッセイ』第四回
『鈴木一誌・エッセイ』第三回
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』119号(2010・04・01)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
(写真撮影:大木茂 ネパール・カトマンズ市・2012年11月撮影)
12-12-02(おおき せいこ)
連載エッセイ・第15回
鏡餅完売
新宿のヨドバシカメラによく行く。この店のファンだと言ってもよいだろう。同じような人は写真家にも多く、彼らに言わせると、ヨドバシカメラには、ときおりどうしても必要となる品物をしっかりと置いてあるらしい。売れ筋ばかりを揃える他の量販店とは一線を画しているのだろう。
ヨドバシカメラに通いだしたのはかなり古い。高校生だったか大学に入りたてのころか、一眼レフカメラを買いに行ったときからだから、四〇年ほど経つことになる。名前の通り、淀橋浄水場のすぐそばの、たしか木造かモルタルの二階屋だったか。商品が展示されているわけではなく、木製のカウンターがあるだけだった。希望の商品名を告げると、店員が背後の棚からカメラやレンズを取りだす方式だったと思う。商店というよりは、問屋の雰囲気だった。じっさい、小売店分の利益をカットして安く売っていたのだろう。値切るにしても、プロの一員になった気がして緊張した。背伸びして、知識を詰めこんで購買におもむいたものだ。カメラを一台買うのは、特別なイベントだった。
以来、パトロールと称して、新宿に用事があるたびに、カメラ売場を中心に新製品のチェックにいそしんでいる。わたしの周りには、中古カメラ、古書、レコード、双六、切手など、自主的にそれらのパトロールを買って出る友人がなにかと多い。それはともかく、そうこうしているうちに、小さな店舗がここまで大きくなったというわけだ。
最近では、売り場ではなく、修理コーナーによく行く。趣味というよりは、実用に迫られてだが、持ち運べる故障品をいそいそとヨドバシカメラに持っていく。修理コーナーで自分の順番を待ちながら、ほかの客が修繕に持ちこんでくる品物を眺めていると、じつにさまざまで見飽きない。壊れたパソコンのデータを何とかしてほしいと訴えるひと、そんなに古びたものをまだ直すのかと思ってしまうような、おそらくは生活に馴染みきったラジカセを取りだす人間もいる。炊飯器のばあい、なかにはまだ白飯が入っているのではないかと感じるくらい、生々しい。
修理コーナーのすぐ横では、真新しい製品を売っているのだが、商品が買われ、一度でも使用されたとたん、その品物は、使用者に属した極めて〈ワタシ〉的な物体に変貌する気がする。使っている人間の気配が立ちこめるのだ。万人に向かって買われようとしている新品と、人格化した修理品とが、道を隔てて隣りあっている。
年末のある日、百円ショップの前を歩いていて、店頭で奇妙な文字列に出会った。「鏡餅完売」。百円ショップと鏡餅の関係が、ちょっとシュールで、一瞬、意味がわからなかった。数秒後、理解する。そうか、いまは、百円ショップで鏡餅を買う時代なのだ。感慨は、単純ではない。供え物まで少しでも安く買おうとするひとびとへの感嘆と、百円ショップで買ってまで年越しの慣習を守ろうとする現象への驚きとを、同時に感じる。百円の鏡餅なら省略してもよい、とはならないのだ。
〈ワタシ〉化された商品の集積が、そのままでは見えない〈ワタシ〉を、自分に対しても、また他者に対しても可視化させる。だが、百円ショップの鏡餅は、それが中国などの外国製であることをふくめて、一体化する世界経済の露頭でありつつ、日本人の心性にも触れており、頭での理解を超えた闇を感じさせる。それは、〈ワタシ〉のもつ深淵かもしれない。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
『鈴木一誌・エッセイ』第十四回
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『鈴木一誌・エッセイ』第六回
『鈴木一誌・エッセイ』第五回
『鈴木一誌・エッセイ』第四回
『鈴木一誌・エッセイ』第三回
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』118号(2010・02・01)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
(写真は、2010/12/05「新宿ど真ん中デモ」で撮影:大木晴子)
12-09-13(おおき せいこ)