『鈴木一誌・エッセイ』第23回
キャンセルという観察点
「キャンセル」ということばは、日常のなかでよく使われ、「ドタキャン」といった派生語を生みだしている。身近な「キャンセル」の意外な重要さに気づかされたのは、ロボット工学者・国吉康夫さんにインタビューしているときだった。国吉さんは、「ロボット技術は、重力や加速度をキャンセルしてきた」と告げる。それまでに実用化されたロボットのほとんどは産業用で、ロボットは、決められた位置でたとえば自動車のボディにリベットを打ちこまなければならなかった。ロボットのアームは、三次元の座標に向かって腕を移動するのだが、運動にともなう遠心力を〈ゼロ〉にしなければ正確な位置での作業ができない。重力や加速度を無いものとする、〈キャンセル〉が必要だった。産業用ロボットの歴史は、キャンセルの精度をいかに上げるかの積み重ねである。
「ところが」と国吉教授は語る。遠心力をキャンセルされたロボットは、人間と同じような動作ができない。例として、寝た状態から起きあがる動きを考えてみよう。わたしたちは、「よっこらしょ」と言い、タメをつくりながら遠心力を利用して起きあがる。介護ロボットが、床に横たわっている人間を持ちあげるとき、ひととの呼吸が合わなければならない。人間と共存できるロボットは、「よっこらしょ」を共有しなければならない。
「しかし」と国吉さんはつづける。ロボットに「よっこらしょ」と起きあがらせるのは思いのほかむずかしい。こうも言えよう。ロボットを研究することで、何気ない人間の動作がいかに精妙な仕組なのかがわかる。ロボットに「よっこらしょ」を学ばせるのは、遠心力のキャンセルをさらにキャンセルすることである。
「キャンセル」を「無いものとする行為」と広く捉えてみると、生活のすみずみにまでキャンセルは浸透している。たとえば、われわれの眼球だ。ヒトの目は、対象を見ようとするとき、猛速度で微振動していて、一瞬も動きを止めない。だが、この振動しながらのスキャンによって、視神経の解像度では見えるはずのない微細な夜空の星までが視認できる。眼球の微震動をキャンセルしつつ、対象の静止を認識するのだ。
持ち慣れない携帯電話をマナーモードにしておくと、全身が振動に過敏になるようで、身体のあちらこちらでブルブルとした震えを感じてしまう。そんなとき、人間の筋肉や神経はひっきりなしに揺れているのだな、と感じる。なにかのきっかけで、振動のキャンセルに失敗したとき、みずからの揺れに気づく。余震つづきで、揺れの感覚に付きまとわれているひとも多いだろう。
ブック・デザインにも、キャンセルは満ちている。ページに正方形を配置するとする。ところが人間の目には、正方形は正方形に見えない。わずかにひしゃげた矩形に見えてしまう。重力の影響かもしれない。デザイナーは、〈正方形〉を読者に見せようとするならば、わずかに縦長の長方形を配置することになる。錯覚のキャンセルだ。同じ大きさの文字でも、明朝体よりもゴシック体のほうが大きく見える。ばあいによっては、ゴシック体が大きく見える現象を無いものとしなければならない……。デザインは、クリエイティブな営為だと思われがちだが、じつは視覚現象に対する細かなキャンセル作業の累積である。
キャンセルとの視点から世界を見渡してみる。わたしは、危険度の凝視をキャンセルして生きてきた気がする。ならば、これからは、キャンセルをキャンセルしなければならない。だがどうすれば、それは可能なのだろうか。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
『鈴木一誌・エッセイ』第二十二回
『鈴木一誌・エッセイ』第二十一回
『鈴木一誌・エッセイ』第二十回
『鈴木一誌・エッセイ』第十九回
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『鈴木一誌・エッセイ』第十七回
『鈴木一誌・エッセイ』第十六回
『鈴木一誌・エッセイ』第十五回
『鈴木一誌・エッセイ』第十四回
『鈴木一誌・エッセイ』第十三回
『鈴木一誌・エッセイ』第十二回
『鈴木一誌・エッセイ』第十一回
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『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』126号(2011・06・01)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
写真撮影:大木晴子
14-04-08(おおき せいこ)
『鈴木一誌・エッセイ』第22回
人工と自然
およそ二週間前、白内障の手術を両目にほどこした。いまは、これまでに比べて見えすぎる自分の眼にとまどっている。加齢性、つまりは老人性の白内障に気づいたのは、一年ほどさかのぼる時期だ。眼鏡店でメガネをつくり替えようと検眼をするのだが、なかなか視力が上がらない。病院で眼科を訪ねると、白内障がじょじょに進行中だとのことだった。身体が〈順調〉に老化していた。
医師と、いつ手術をするかの相談になった。担当医は「わたしも医者なので手術は好きですが、自分の両親がいまのあなたの状態だったとしたら、手術はまだしないですね」と言う。ならば、日常生活に重大な影響のない範囲で、視力低下のギリギリの地点まで行ってみようかと考えた。親にもらったからだをとことん持久させよう、というわけだ。さらにはデザイナーとして、白内障の進行を観察してみたいとの思惑もあった。
日を追うごとに、それこそ〈順調〉に視野がかすんできた。ことに利き目である右目が、酷使のせいもあってか、湯気で曇ったメガネ越しに周囲を見るようなありさまとなっていく。さらに、視野を曇らせている眼球内の澱のせいか、世界がかすかに赤味がかって見える。デザイナーは、いろいろな局面で色味の判断をする。たとえば、印刷所から校正刷りが出てきたときなど、右目をつぶり、見え方がまだマシな左目に頼るしかなくなり、配置や大小の関係はわかるが、インキの盛り加減を微細には把握できない、との自覚をもたざるをえなくなった。もちろん、小さな文字は見えづらい。暗い場所での視力低下もいちぢるしく、二〇一〇年末には、夜道ですれ違うひとに危うくぶつかりそうなケースが数回あり、入院を決断した。片目なら一泊二日、両目いっぺんになら三泊四日、と医師から告げられ、両目コースを選んだ。
手術は、ひとによってちがうそうだが、意識はあるし施術者の声も聞こえるなか、痛みを覚えることもなく、一〇分から三〇分で終わる。麻酔と注がれるさまざまな液体とでぼやけた視野の向こうで、光と色彩が氾濫する。光と色彩とで目のなかをかき回される感触だ。医師が、「つぎの患者さんを呼んでください」とかたわらの看護師に告げる。このとき、手術がぶじに終わったことを知る。
術後、数時間して、数種の目薬の点眼が始まる。無菌状態であった眼球への細菌感染をおそれるからだ。目薬をさすために手術した右目を開けなければならない。おそるおそる周囲を眺めてみて、おどろいた。世界が、これまでよりも明るく深い遠近感とともに飛びこんでくる。「マシな左目」と見比べても、見え方の鮮やかさは歴然としていた。自分は、これまでなにを見てきたのだろうか。
正確な手順はわからないが、眼球の上方に小さな切れ目を入れ、そこから水晶体を人工のものにすり替えているのだろう。人工の水晶体に交換した瞬間、すでに視野は確保されていたのではないか。手術直後、薄目越しに眼帯のガーゼが見えたからだ。わたしの身体は、人工のレンズを瞬時に受け入れた。〈自分の身体〉という境界線が揺らぐのを感じる。自身の身体は、どこまで人工物に置き換えられるのだろう。どの範囲までだったならば〈わたし〉はわたしでいられるのか、とも考える。ロボット技術は、なんためにあるのか。言うまでもなく、社会に有用なロボットをつくるためであるが、同時に、人体の仕組みを解明するためだとの意見がある。〈人工〉を〈自然〉に対立させるばかりではなく、両者がたがいを照らしだす地帯も広がっていく。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
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14-04-08(おおき せいこ)
『鈴木一誌・エッセイ』第21回
年賀にマスクを
数か月前、二〇一〇年一一月だったが、日本経済新聞の比較的大きな広告をオヤと思って見た。「新年のご挨拶に御年賀のマスクを」とある。年賀にマスクを持って行こう、との誘いだ。一箱二〇〇円で、熨斗紙に名入れもできる。手拭いやタオルとの習いがある「御年賀」もついにマスクになったか、と感心した。社会の清潔願望が昂進し、かつインフルエンザの流行時期である。無理もないと思ういっぽう、めでたい年頭あいさつで、病気や細菌を連想させるマスクを差しだすのは、いささかひるむ。
消費者の需要が先なのか、受容を誘引する商品が先なのか。おそらく同時なのだろう。ユーザーの意識の底に流れている欲望が、具体物として文節化されたとき、商品として認知される。「年賀にマスクを」広告はどのくらいの反響を呼んだのだろうか。
スーパーやドラッグストア、デパートの地下売場にいくとクラクラする。わたし自身の欲望が細分化・体系化されてそこに陳列されている観がある。別の言い方をすれば、そこでは、商品群によってわたしの未来が子細に予期されている。数十分後もしくは数時間後には、あがなった商品とともに、食べたり使用したりの時間を過ごしているはずだ。
あらゆる商品は、時間の先取りなのだが、先行ぶりが、より微細になっているのではないか。たとえば携帯電話で電子メールなどの文章を打つばあいだ。数文字を入力しただけで、早くも変換候補がリストアップされる。日本語入力ソフトが、個人の性癖や嗜好を学習し、ことばの候補を探しだす。一秒に満たない瞬時のうちに、あくまでも文章の書き手がことばを選んでいるのか、変換候補から選ばされているのかが分かたれていく。
事態は、パーソナルコンピュータでも同じなのだが、装置が小さく入力が窮屈な携帯電話では、入力ソフトを導き手にして文章が仕上げられていきがちだ。結果的に、「お疲れ様です」的な常套句が多くなる。紋切り型のことばが部品のように組み立てられていく。日本語の危機かもしれない。
未来の先取り=行為の文節化は、すでに生活のすみずみにまで及んでいる。炊飯器にせよ洗濯機にせよ、基本的には電子的な機能からどれかを選んでいるだけだ。アマゾンのオンライン書店が薦めてくる本をつい買ってしまうときも多い。
だが、コンピュータ社会における未来の先取りを回避するのはむずかしい。なぜならば、予測の背景には、膨大な過去のデータが潜んでいるからだ。アマゾンにしても、読者が購買した本のデータをもとにして、つぎに買うべき本を推薦してくる。グーグルに代表される検索システムにしても、アクセスできるあらゆるデータは、〈すでに起きたこと〉である。イベントの予告にしても、未来にではなく、予告されたという過去のできごとに触れているだけだ。
画家であり作家でもある赤瀬川原平さんが、さるエッセイで、「いまどき性格俳優なんて言葉はぜんぜん聞かれない。(…中略…)いまの世の中は全員が性格俳優だから、あえてその言葉を使う意味がないのだろう」(「もったいない……14 ホテルの石鹸が気になる」『ちくま』二〇〇六年四月号)と書いていた。わたしたち全員は、みずからの過去を索引的にめいっぱい背負って歩く性格俳優なのだ。過去の延長線上を生きながら、自分というアイデンティティを守りつづけている、とも言える。過去が回り回って未来で待ちかまえている。この無限のループから逃れるためにはどうすればよいのか。〈自分らしさ〉を捨て、ときには朝令暮改が必要なのかもしれない。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
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「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』124号(2011・02・01)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
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(撮影:大木晴子)
14-02-13(おおき せいこ)
『鈴木一誌・エッセイ』第20回
言葉ということば
「言葉」ということばは、不思議だ。なぜ、ことばと植物の葉が結びつくのか。たとえば英語の「word」にしてもフランス語の「mot」にしても、「葉」との関連を示す痕跡はどこにもない。世界中の言語を調べたわけではないが、「ことば」に「葉」のイメージを内包させた日本語は、特異なのではないか。
古典学者の西郷信綱は、『古事記』には「コトバ(言葉)という語が見いだせない」(『日本の古代語を探る』集英社新書、二〇〇五年)と書く。それは「『古事記』が、まだ文字のない口誦時代の伝統を踏まえているからだと考えていい」からだそうだ。さらに西郷は、古代社会では、口に出したコト(言)は、そのままコト(事)を意味し、言と事は未分化であったことを素描し、やがて傾向として、コトが事を現わすように片寄っていくにつれて、コトバが口頭語を意味するようになっていった、と簡潔に記す。この変遷を西郷は、「日本語の歴史において、文字のまだない世から文字のある世への以降を暗示する、すこぶる大事な論点」とする。
「コト」に「ハ」が付着し「コトバ」なる語へと変成していく背後には、文字の浸透があった。じっさい、文字をもった時代に編纂された『万葉集』では、書名に「葉」を進入させている。ことばに「葉」というイメージをもたらしたのは、文字である。紙上に書き連ねられた文字、ことに平仮名のすがたが、ひらひらと風にそよぐ葉を連想させたのだろう。はじめは、「言羽」「古度婆」などと表記した例もあったようだが、ことばが「言葉」として定着していく背景には、文字を葉っぱに見立てる「視覚の問題」がからんでいる。「紙上に書きつらねられた文字たちの姿を前にしたとき、その語を比喩的に植物の葉と受けとるのは、ごく自然の成りゆきではないかと思う」(同前)
詩人の茨木のり子さんのエッセイ集『言の葉さやげ』(花神社、1975年)を思いだす。「あとがき」に題名の由来が記されている。茨木さんは、かつて読んだ『古事記』歌謡の、「木の葉さやぎぬ 風吹かむとす」を「言{▲ルビ:こと}の葉{▲ルビ:は}さやぎぬ 風吹かむとす」と思いこんでしまっていたそうだ。「木の葉さやぎぬ」という唄は「謀反をそれとなく知らせた俗謡」らしく、出来事が起こりそうな予兆を木の葉のざわめきによって表わしているのだが、茨木さんは、なぜか「不穏の空気ありということを、「言の葉さやぎぬ」と捉えた古代人の感覚は凄いと感心していた」。さらに、まちがいに気づいたあとですら、「もしかしたら元の形は「言の葉」だったのでは……なんて馬鹿なことを考えている」。
世の中が文字をもつに至らない時代、ことばは、だれがいかなる場所で発話されたかがひとびとによって記憶され、現実世界と連繋していた。ことばは、ひとびとに覚えられることで、地面に根を張っていた。いっぽう「文字をもつ世」では、文字が記憶を代替する。竹簡や紙に記された文字は場所を移動し、どんな人物がどのような状態で読むのか、書き手が十全に制御することは不可能となる。転写され、複製が伝播をひろげていく。「詠み人知らず」なる概念は、「文字を持つ世」になって初めて登場したのだろう。
書き手と読み手の組み合わせが固定できないことばのあり方を、極限にまで推進したのが、現在のウェブ空間だろう。歌集を「ことの葉」になぞらえる紀貫之は、『古今集』「仮名序」に、「ひとのこヽろをたね{▲2文字傍点}として」と書いた。葉は、種があってこそ生い茂るのだ。わたしたちの「種」はどこにあるのか。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
『鈴木一誌・エッセイ』第十九回
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『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』123号(2010・12・01)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
(写真撮影:大木晴子)
14-01-09(おおき せいこ)
『鈴木一誌・エッセイ』第19回
空気のようなデザイン
ある日、町を歩いていると、商店街や路地沿いの一角が更地になっている。建替えなのだろうか。それまでどんな商店や建物が存在していたのか、思いだせない。はじめは湿り気のある土色をした空地も、数日も経つと雑草が生えはじめ、またたくまに緑の繁茂するスペースとなってしまう。一定の植物が地面を占有しつづけることはなく、背の低い草々が土地を覆いつくしたあと、やがて背の高い植物にとって代わられる。背丈の大きい種類も枯れ、あらたな芽吹きを見る。そんな遷移が繰り返されていく。「雑草という名の植物はない」と指摘したのは、昭和天皇だったか。
雑草を見るのは、楽しい。なぜなら、人為的なデザインとは無縁だからだ。雑草が、アスファルトの路面やコンクリートの側壁の小さな隙間から顔をのぞかせ、土砂崩れを防ぐために構築された巨大なセメントの壁面の微細なひび割れに根づいている。そんな光景を目にしたひとも多いはずだ。人間がどんなに完璧を期しても、植物は人造物の弱いところを突いてくる。弱いところとは、水の浸透する箇所だ。
雑草を見ることは、デザインされてないモノを見る数少ない機会だ。道行く人びとの服装も持ち物も、ビルディングも、すべてなんらかのデザインがされている。人びとの身体や顔貌もまた、演出されていると言ってよいだろう。入れ墨やピアスを施された人体も目に付く。あらゆる商品は、デザイン行為を通過しているのではないだろうか。家のなかの品々も同様だ。稲や野菜は、品種改良がなされている。登山をするにしても、登山道と標識は整備され、トイレも清潔なのがよい、と思ってしまう。グランド・デザインなどと口走る人間もいる。
デザインは、世界に空気のように浸透した。わたしたちは、デザインに包まれて安心する。拡散したデザイン世界を象徴するできごとが起きている。〈電子書籍〉である。以前にも紹介したが、わたしと友人デザイナー・戸田ツトムとで責任編集をつとめているデザイン批評誌『d/SIGN』誌で、「電子書籍のデザイン」を特集しようと作業中なのだが、「電子書籍のデザイン」とはなにを指すのか、考えだすとむずかしい。アイパッドやキンドルのような、端末と呼ばれる工業製品のデザインなのか。その端末の画面から電子書籍を呼びだしページを開くまでのインターフェースについてなのか。映しだされるページのすがただろうか。さらには、現在、世界に各種ある電子書籍のフォーマットをめぐる話か。あるいは、電子書籍をいかに流通させ課金するかのマーケットにまつわる話題なのかもしれない。どれかが正しい設問なのかではなく、すべての問題が〈電子書籍〉に集中しているのだ。
本が世界を映す装置だからこそ、本の世界の地殻変動とも言える電子書籍に、世界の様相が凝縮されている。電子書籍が普及すれば、とうぜん、ブック・デザインという職業に影響を及ぼすのだから、わたしは、「電子書籍のデザイン」の当事者であるはずなのだが、なかなか当事者意識がもてない。電子書籍はあらゆる読者の問題でもあるゆえに、全読者が当事者であるとも言える。空気のようなデザインの裏返しである。
現在の電子書籍は、街角の更地のようなものかもしれない。デザイン的に未解決の問題が、渦巻いている。多様な雑草が入り乱れながら生い茂っている空き地のようだ。更地にはやがて新しい建造物が出現するように、電子書籍なるフィールドも、ルール化された座標に覆われていくのだろう。だが、電子の本であっても、読書は、けっしてデザインされない、想像力の支配する野放図な行為であることを信じたい。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
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掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
(写真撮影:大木晴子)
14-01-03(おおき せいこ)