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     【明治公園での逮捕(3月9日)−私の経験について「今後のため」報告します。】一.逮捕までの経緯・二、四谷警察署での取り調べ・★(その1)から(その7)まで読めます!
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投稿者 スレッド
seiko
投稿日時: 2013/4/18 1:03
管理人
登録日: 2003/9/21
居住地:
投稿: 3623
【明治公園での逮捕(3月9日)−私の経験について「今後のため」報告します。】一.逮捕までの経緯・二、四谷警察署での取り調べ・★(その1)から(その7)まで読めます!

(2013年3月9日・明治公園・「つながろうフクシマ!さようなら原発大集会」
大江健三郎さんもスニーカーを履かれて参加されていました。)

http://seiko-jiro.net/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=flat&topic_id=1953&forum=1
(連載その8)からは、上記のページで掲載しています。

多辺田 政弘さんの貴重な体験報告を「たんぽぽ舎メルマガ」より転載させて頂きます。

明治公園での逮捕(3月9日)−私の経験について「今後のため」報告
します。脱原発運動の今後に少しでも役立てば・・・(連載その1)
 └──── 多辺田 政弘
  (編集部)著者の了解を得て公開します。今後の不当弾圧に役立つので。
      なお、長文なので6−7回に分けて掲載します。
(原文は縦書きなので和数字の日付けは算用数字に直して掲載)

一.逮捕までの経緯
2013年3月9日に明治公園で行われた「3・9 さよなら原発集会」には、私は
妻と一緒に参加しました。途中で弟とも待ち合わせて一緒に会場に向かいました。
私たちは「脱原発」の主張にかねてから賛同しておりましたので、一昨年の3・
11フクシマ原発事故以来、「脱原発」の集会やデモには何度か参加したことが
ありました。
ところで、私は六十六歳(3・9当日)で三年前に心臓バイパス手術(糖尿病
の合併症による狭心症・心筋梗塞のため)を受け、その際左足の静脈の一本を冠
動脈パイパスに使ったため、左足側の腰痛や歩き辛さが「後遺症」として若干残
りました。集会当日に家を出た時は、「今日のデモはどうしようかな」と迷って
いました。しかし、集会で演壇に立たれた大江健三郎さんが、あのご高齢にも拘
らずスニーカーを履いて今日はデモ・コースを最後まで歩かれる積りで来られた、
との紹介が集会司会者からあったので、私も今日はデモ・コースを完歩しようと
決めました。
少し予定時間より押していた集会が終わって、用意された二つのデモ・コース
の出発口に隊列が並び始めました。私たちは(集会演壇に向かって左手出口から
出発する)「一般市民グループ」の参加する「Aコース」の隊列に加わることに
しました。出発前にお手洗いを済ませようと考え、演壇左側の上段後方の広場に
設けられていた仮設トイレで用を済ませてから、Aコースの先頭の方を探しまし
た。
Aコースの隊列は、既に前のほうからびっしりと詰まって並んで、後ろの方に
は特定の団体の旗を立てた隊列が続いていました。私たち(妻と弟も一緒に)は
市民グループのいくつかの旗の見えるAコースの先頭集団を見つけ、出発直前だ
ったので遅れまいと急いでその隊列の横まで行き、隊列の横から(出発口に向か
って左側の芝生の囲みを横切って)加わろうと小走りに駆けて行きました。
 時間は3時半近くでしたが、まだデモは出発前でした。私の記憶では、前回
(昨年だったと記憶していますが)の明治公園からのデモ出発時には、警察によ
るデモ規制は公園を出たところから始まったように思っていました。今回は会場
(公園)出口の手前から警官が二メートル前後の間隔で並んでいました。
 その間隔のある規制警官の列の間を急いで擦り抜けようとしてところ、規制警
官が「ここはダメ」と手を広げてようとしたような感じでした。デモの隊列は目
前でしたので、私はもう少しでデモ隊の列に駆けこめると思いました。目指す隊
列まであと一、二メートルだったので、近寄った警官の間をすり抜けられるだろ
うと安直に考えました。しかし、背の高い若い警官のほうが、六十六歳の「足の
衰えた」年寄りの私より、運動神経も体力も遥かに上でした。後で冷静に考えて
見れば、周囲の状況判断を出来ずに直線的に行動を取ったことになります。
 警官の制止を聞かずに、ただ目的に向かって走りぬけようとした「呆け掛かっ
た老人」(私のことですが)を、大男の若い警官が条件反射的に一瞬にして年寄
りの手を捕まえ捻り倒しながら「カクホ!」と叫んだように記憶しております。
その瞬間、それを見ていたデモ隊の数人が私を助け出そうと駆けより私の右手や
身体を引っ張り、一方、警官たちがバラバラッと駆け寄り、逃すまいと私の上に
圧し掛かってきました。重量級の警官たちが何人も圧し掛かってきた訳ですから、
「潰されるて死ぬんじゃないか」という恐怖が過ぎりました。地面に押しつぶさ
れた私の頭の上でデモ隊の何人かと警官たちが私の身柄の奪い合いを、まるで
「綱引き」のように始めたのです。間もなく左手に手錠が掛かり、その手錠は左
手首を締め上げ初め、それが痛いのなんの、「どちらも、引っ張り合うのはもう
止めてくれ」と息絶え絶えのなかで思いました。
手錠が掛かった瞬間に、私は取りあえず警察に行かなければならないだろう、
そうすると少なくとも数日の留置・拘留は覚悟しなければならないだろうと観念
しました。そう諦めて、覚悟した瞬間に、「どうせ捕まったなら一通り警察や留
置場や検察庁とやらをこの目で見てやろう」という好奇心が不思議に湧いて来ま
した。
この逮捕の瞬間に就いて、後に、四谷署での取調べのときと東京地検での検事
取り調べの中で分ったことですが、私を捕まえた若い警官は「被疑者が手を前に
伸ばして突き倒したので公務執行妨害で逮捕した」と報告していたようなのです。
私には「警官を突き飛ばそうという考え」も「突き飛ばしたという記憶」も全く
ありませんでした。「手を前に伸ばして」というのは、二人の警官の間を擦り抜
けてデモ隊のほうに走り寄ろうとした状況から、そういう形になっていたかもし
れない、とは思いましたが、それは警官に手を上げたという意味では全くなかっ
たことは間違いありません。私の脳裏の残像をもとにその瞬間を再現してみれば、
若い警官が制止を聴かずに自分の身体の横にぶつかってきた男に、カッとなって
反射的に、腕を捕まえ捻り倒した、ということだったのです。ただそれだけだっ
たのです。多分、若い警官がもう少し冷静だったら、飛び込んできた「ボケ老人」
を制止して後方に回ってデモに加わるように促せばよかっただっけの話ではなか
ったかと、後の取り調べの時に思いました。また、現場の警察官が冷静さを欠い
ていたのは、初めから警察側に「とにかく抑え込め」という空気(あるいは指示)
があったからではないでしょうか。
 そういう状況を客観的に振り返ってみれば、確かに私の迂闊さ(不注意)もあ
ったのですが、「(不必要な場所での)過剰規制」と「(若い警官の感情的)過
剰な逮捕」つまり「逮捕権の乱用」が引き起こした偶発的事件だった、と見るの
が最も妥当な見方なのではないか、と思います。またもう一歩踏み込んで、あの
時のデモ出発前の公園出口手前の規制は「デモへの参加妨害」という警察側の
「越権行為」だったのではないか、と考えることもできるでしょう。しかし、私
はそのことを取り調べの中では敢えて争うことはしませんでした。(但し、もし
起訴になれば、デモ出発前の出口での「不要な過剰警備」は、法廷での「重要な
争点」の一つになるだろうとは考えましたが)
 さて、話は逮捕時に戻りますが、一瞬にして起こったその揉み合いの風景の中
で、はっきり憶えていることが一つあります。女性の弁護士さんが「私は弁護士
の何某です」と叫びながらもみ合いの塊に近づいてきてくれたことです。それは
私の中に何やら「希望(望みの綱)」のようなものとして頭の隅に響きました。
後に(釈放後に)、その渦中にいた私の妻や弟から聞いて分かったことですが、
彼女は横浜の岡部法律事務所の岡部玲子弁護士でした。妻の話では、私がもみく
ちゃにされている時、デモの人に向かって岡部先生は「離れなさい!」と言って
くれたそうです。メチャ無茶な押し合いへしあいが止んで、警官にやっと助け起
こされたのは、多分その直後だったのではないかと私の記憶の中で符号しました。
因みに、これも後でわかったことですが、その現場に散乱して残っていた物(サ
ングラスや本や帽子など)を拾って預かってくれたのも岡部弁護士でした。釈放
後、その回収物の中に、鞄に入れておいた私の二冊の本もあったことを問い合わ
せて下さり、送付して下さったのも岡部弁護士でした。
 また、これも釈放後に知ったことですが、この混乱の中で傍にいた妻(六十八
歳)が、取り押さえに掛かっていた警官たちに「この人は体調が悪いので止めて
下さい」と必死で叫んで助けを求めていたら、その周りにいた警官(特定はでき
ないが)にキツイ肘鉄を胸部に食らったそうです。まだその打たれたところは痛
むようです。とにかく年寄りにも見境なく暴力をふるったようです。――「人間
に配慮を欠いた」社会と政治を見事に反映しているように思えてなりません。


(幼子は手に風車を握り、母親は子どもの手を!温もりを感じる光景が会場に満ちあふれていました。)

明治公園での逮捕(3月9日)−私の経験について「今後のため」報告
します。脱原発運動の今後に少しでも役立てば・・・(連載その2)
 └──── 多辺田 政弘

二、四谷警察署での取り調べ
 四谷警察署に警察の車で護送されてからの流れは、ほぼマニュアル通りだった
と思われますので、細かいことは省きます。とにかく、手錠と腰縄に拘束され、
「人間扱い」はしないというシステムで貫かれていました。

 まず、所内の部屋の一部を仕切っただけの粗末な取調室に入れられ、持ち物を
押収され、身体検査を受けた。それから、取り調べ担当官=警部補(自ら「奥迫
=オクサコ」と名乗っていました)がやって来て、マニュアルの流れに沿って、
まず、弁護士を付ける権利のあることを述べた。しかし、初めから捕まることを
想定して弁護士を決めてデモに参加する人はそうおりません。ふと頭に浮かんだ
のは逮捕時の混乱の中に駆けつけてくれた女性の弁護士さんの顔だったのですが、
名前も所属も分らないので、「まだ決まっていない」と記録された。

 それから、「自分に不利になることや話したくないことはその旨を言えば良い」
と、これもマニュアル通りに伝えられた。私は、意図的に「公務執行妨害」をし
た訳ではなかったので、反抗的な態度を取らなければ不起訴になることは間違い
ないだろうと思っていましたので、「完黙」などという方法は取らずに、(関連
して他人に迷惑を掛るようにならないことは慎重に心掛けましたが)、自分のこ
とについての質問には素直に簡潔に応えました。―とにかく、このような過剰な
逮捕は絶対「不起訴」にしなければ、と心に決めていましたから。

 取り調べは、身上(経歴)や「逮捕時の状況と自分の弁明」などが時系列的に
淡々と尋問されました。取り調べをしながら調書をパソコン(ワープロ)で作成
し、途中何度も打ち上がった部分をプリントアウトして被疑者(私)に記載事項
を見せて確認する、という作業を繰り返しました。始まったのは午後4時過ぎか
らで、途中、《病院への往復(診察と常薬を取りに)=後述》、と《夕食》、を
挟んで、夜の十一時過ぎまで続けられた。この間、トイレと水を何度も要求しま
した。これには素直に応じてくれました。因みに、この取り調べ官は、四十代後
半ぐらいで、私の受けた印象では、普通に気さくな感じで、「意地の悪い人」
(悪意のある人)には見えなかった。

 取り調べを始める前に、病気や薬のことを聞かれた。三年前の心臓のバイパス
の手術後から投与さしているワーファリン(毎朝食事)と、二十年近く続けてい
る糖尿病のインシュリン注射(朝・夕二回)があることを告げた。共に東京女子
医大に通院していることを告げると、取り調べを中断して、夕食前に署の車で東
京女子医大病院の緊急外来の病棟に連れて行き、簡単な診察と薬を貰うという措
置が取られました。事前に警察のほうから電話で予約をしていたらしく、スムー
ズに手続きは進んだ。診察は時間外だったので、別病棟(「緊急外来」)から入
り、若い宿直医が対応していた。土曜日の緊急対応だったせいで、薬は二日分し
か処方されなかった。もし、月曜日に地検から起訴が申し渡された場合には、拘
留が長引くので、もう一度月曜日に病院に行く必要があった。この間の往復、病
院内での行動も含めて、公衆の面前でも、すべて手錠・腰紐を付けられたままで
あった。しかし、手荒い扱いと言う訳でもなかった。

 「取り調べ」に対して、私は三つの簡単な心得を自分なりに作りました。そし
てそれを守りました。一つは、事実の記録を曲げさせないこと。二つ目は、論争
をしないこと。例えば、「不当逮捕」であるなどの価値判断(主張)の分かれる
言葉を使わないこと。三つ目は、自分のドジも率直に認めること。―逮捕されて
しまった以上は、「不起訴」が目標(焦点)であると考えたからであります。な
ぜなら、《この程度では「公務執行妨害罪」は成立しない》という結果をちゃん
と残すことこそが、この時点での「私の闘い」であると考えたからです。

 取り調べ官やまわりの世話係の警官に無駄に突っかかったりせず、紳士的に対
応するようにした。相手も感情を持った人間であるのだから、不快感は判断を左
右させることもあるだろうから。調書の内容の確認は納得のいくものにする。自
分が述べた部分の記述のところで納得のいかない表現がある時には、「そうは言
わなかったと思います」と率直に納得できる形に訂正してもらう。また、「そこ
まで細かく聞く必要はありますか」と微細な質問には疑問を投げかけ簡潔にして
もらう。若いエネルギーの有り余っているときと違って、「年寄りの半病人」
(私のことです)には、「完全黙秘」をしたり、無駄なエネルギーを浪費して
「論争」を楽しむ余裕は残念ながら残って無かったのです。それに、自分で蒔い
た種は自分で刈り取るほかはない。隔離された警察署の中では「たった一人の反
乱」なのだから。(続く)


(デモの写真です。大きなプラカードを掲げて歩くのはたいへんです。この方はずっと掲げていた!)

明治公園での逮捕(3月9日)−私の経験について「今後のため」報告
します。脱原発運動の今後に少しでも役立てば・・・(連載その3)
 └──── 多辺田 政弘

 ところで、取り調べ中に大変気になったことが一つありました。それは、私が
「携帯」を持っていないか、警察(公安)の人間が、何度も取調室に入ってきて
は執拗に所持品検査と身体検査をして携帯を探しまわっていたことです。それは
「血眼」とも言える異常な執拗さでした。私はこれまで一度も携帯を持ったこと
のない(「持たない主義」の)今どき珍しい時代遅れの人間ですから、警察も不
思議に思ったのかもしれません。もし私が携帯を持っていたら押収して、そのメ
ール記録から簡単に芋ずる式に人間関係と情報のネットワークそして通信内容ま
で解析して、手に入れようとした公安の魂胆が、ハッキリと見えました。そして、
背筋がぞっとしました。それは「捜査」に名を借りた不当な「プライバシ―の侵
害」である。公安はメール記録のコピーを一瞬に、しかも「証拠を残さず」行え
るだろうと推測できました。携帯電話はもし押収されたら、警察・公安にそのよ
うな使われ方をされる危険性があることを、デモ参加者は予め認識し注意してお
く必要があるように思いました。携帯のような便利な情報・通信機器は「両刃の
刃」であることをゆめゆめお忘れなきように願いたいと思いました。

 こうして、四谷署での取り調べが終わったのは多分午後十一時過ぎ頃だったの
ではないでしょうか。その後、地下室にある撮影機器などの並ぶ部屋に連れてい
かれて、正面・横の上半身写真やすべての指の指紋をやたらと撮られました。こ
れをどう利用するのだろうかと不安に思いました。――それらすべてが済んでか
ら真夜中に拘置所のある湾岸署に移送されました。四谷署には留置場がないから
らしい。(何年か前まではあったらしいのですが、手狭になったため別の用途の
空間に変えてしまったらしい)。

 四谷署での取り調べが予想したよりスムーズにいったように感じたのは、私の
「三つの対応心得」が功を奏したのかなと思ったのは、独り善がりだったようで
した。少なくともそのせいだけでは無かったということは、釈放後に家族や友人
からの報告で分りました。逮捕時の映像がユーチューブで流れ、集会関係者や弁
護士の方々がいろいろ奔走され、四谷署に沢山の抗議の電話や釈放要請が殺到し
たらしいのです。後で思い出してみると、その「外部からの圧力」が四谷署の慎
重な取り扱い態度に現われていたことは間違いないように思えました。

(おおき せいこ)
★続きが届きましたら掲載させて頂きます。
facebookをされる方は、下記にアルバムを掲載しています。
この日は、私もツイッターとfacebookに書き込みをしながら歩きました。
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.436344289787476.1073741835.100002357263171&type=3
2013年3月9日・明治公園・「つながろうフクシマ!さようなら原発大集会」
http://twilog.org/kuronekoroku/date-130309
3月9日、ツイッターのつぶやき。
★私が逮捕された1969年と、だいぶ違いますね!対応が。
http://seiko-jiro.net/modules/news/article.php?storyid=67
seiko
投稿日時: 2013/4/18 22:57
管理人
登録日: 2003/9/21
居住地:
投稿: 3623
【明治公園での逮捕(3月9日)−私の経験について「今後のため」報告します。】三.湾岸警察署(留置場)にて。つづきあり!

(この日のデモには、ご高齢の 吉川勇一さん も歩かれていた。)

http://seiko-jiro.net/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=flat&topic_id=1953&forum=1
(連載その8)からは、上記のページで掲載しています。

多辺田 政弘さんの貴重な体験報告を「たんぽぽ舎メルマガ」より転載させて頂きます。

明治公園での逮捕(3月9日)−私の経験について「今後のため」報告
します。脱原発運動の今後に少しでも役立てば・・・(連載その4)
 └──── 多辺田 政弘

三.湾岸警察署(留置場)にて

夜景の見える湾岸道路を飛ばして留置場のある湾岸署に四谷署の車で着いたの
は、日付が変わった三月十日の夜中でした。入ってすぐの手続きの時に書類にい
くつかの母印を押させられたが、その書類の日付が既に十日になっていた。警務
官から「入所心得」を渡され読まされて、身体検査をされ、用意されたジャージ
に着替え、一〇畳くらいの一人部屋に通され、やっと眠りに就いたのは午前二時
頃だったのではないだろうか。「入所心得」には起床時間が午前六時と書いてあ
った。留置場内では名前では呼ばれることはなく、私は「二十五番」という番号
で呼ばれることになった。
 眠りに落ちてすぐに監視から「二十五番!弁護士が接見に来たので起きなさい」
と起こされて、接見室に通された時は、二時をかなり過ぎていたようだった。私
は「弁護士さんが来てくれた」というだけで、心が軽くなりました。
 接見室の硝子張りの仕切りに開いた小さな窓を通して、初めて外部の人に会う
ことができました。「弁護士の小竹です」と、想像もしなかった明るい若い女性
の声が聞こえてきました。こんな時間なのに、明るく元気に笑って迎えて下さっ
た先生のお顔を見て、何か大丈夫だという大いなる安堵感に包まれました。先生
は「もう一人の同じ法律事務所の同僚の若い弁護士さんも一緒に待っていたので
すが、電車も無くなるので先に帰ってもらいました。彼女も、とても興味を持っ
て会いたがっていました」と話し始められました。
 先生は「私も学生のころ早慶戦の天覧試合に反対して、ビラを撒いて逮捕され
たことがあるので共感を持ちました」と笑って仰って下さり、一瞬にして私の心
を和ませてくれました。―後に私が釈放されてから先生の若き日のご自分の事件
についての詳細な記録をお送り頂き、実に楽しく読ませて頂きました。それは、
観察力とユーモアの溢れた奥行きのある文章でした。
 ―先生は「こういう経験はめったに味合えるものではないので、好い経験だと
思って頂くのも好いですね」とユーモアを込めて言われたのにはまったく同感で
した。私も、既に手錠を掛けられた時点で、頭をそのように「切り替え」ていま
したので。さすが根性のできた体験者(先輩)だと秘か頼もしく感じました。
その時、先生には私の逮捕時の経過を簡単に説明させて頂きました。先生は「そ
れくらいなら不起訴になると思いますから、大丈夫ですよ。月曜日に東京地検に
行くことになると思います」と先生の見通しを話して下さり、ほっとしました。
 「何か要望はありますか」と先生が尋ねて下さったので、「家の者が心配して
いると思いますので、元気だったとご連絡頂けますか」とお願いをしたら、「奥
さまは四谷署に来ていらしたのですが、留置先がなかなか決まらず、大分待たさ
れた後、お帰りになりました」と告げられ安心しました。そして、この次に妻が
接見に来る時に持ってきて欲しい物を伝えて頂けるようにお願いして、お別れし
ました。

明治公園での逮捕(3月9日)−私の経験について「今後のため」報告
します。脱原発運動の今後に少しでも役立てば・・・(連載その5)
 └──── 多辺田 政弘

(三.湾岸警察署(留置場)にて <つづき>)
 単独房から共同房へ・・・拘束された者同士の仲間意識

 翌朝(十日)に、湾岸所内の単独房から共同房に移されました。房内でのみ
手錠を外され身体を楽にすることが出来ました。私の房は三人部屋でした。同
室の一人は二十代の半ばのイケメン青年、もう一人は四十代半ばの坊主頭の腹
の据わった感じの壮年で、六十代半ばの私と丁度ほぼ二十歳間隔の開きがある
面白い組み合わせでした。二人がどうしてここに入っているのかは二人の交わ
す会話の端々から大雑把に察しはついたのですが、その憶測はここでは省略さ
せて頂きます。
 二人とも、ユーモアがあり率直でとても感じのいい人たちでした。同室にな
って不愉快なことはまったくありませんでした。私は房内で一番後輩だったに
も拘わらず、こちらが恐縮するくらい「長幼の序」を持って接してくれて、房
内の日課を教えてくれました。食時の世話をやいてくれたり、室内の掃除(床
のカーペットの水洗いやトイレ掃除)も負担を軽くしてくれたり、同室の隣人
は優しい心配りをしてくれました。
 二人は、朝起きると布団をたたみ、上半身を裸になり、通路側の鉄格子の下
に足首を引っ掛けて物凄い速さで上半身を起こす腹筋運動を始め、汗びっしょ
りになるまで続ける。これは持久戦に備えて体力を鍛えておく為だそうだ。二
人とも筋肉質の良い身体をしていました。それが毎日の日課のようでした。
 私は丸坊主の精悍な面構えの四〇代の男を「親分」と呼んだ。若い二〇代の
青年は六法全書を借り出しては取り調べ対策を勉強していたので「六法君」と
綽名を付けた。二人は同じ部屋になって一週間ぐらいのようだが、実に仲が良
く洒落た会話をしていた。
 そう言えば、私が部屋に入った時、親分は私に向かって「刺した?」と刃物
で衝く真似をして笑った。私も笑った。二人はよく本を読み、時々「今何が食
べたいか」の話題で盛り上がっていた。私は二人から「博士」と呼ばれた。朝
に移動本棚から読みたい本を借りられるのだが、私が小川洋子の『博士が愛し
た数式』を借り出して読んでいたからである。二人は感心なことに日記を毎日
書いていて、「親分」は日記を広げて「今日は入ってきた博士は何者だろう」
と声を上げながら書く振りをして私を見て笑った。
 留置場の壁の中の空気は新鮮で温かく、心なごむものがありました。それは、
「拘束された者」同士の一種の仲間意識もあるのかもしれません。後に小竹先
生からお送り頂いた『留置場日記』(先生ご自身の留置場体験記)を読ませて
頂くと、そこに拘留者同士の共通の感受性が働いていたことが書かれていて大
変共感しました。小竹先生が「新しい経験があるわよ」と言われた意味の一つ
がこれかな、と思いました。
 留置場内で体験した面白いエピソードはまだいくつかありますが、その話は
また別な機会にしたいと思います。(次号につづく)
(次号:四.東京地検での取り調べ・・・・)

13-04-18(おおき せいこ)
★留置場のお話、興味あります。何時か多辺田さんとお話し出来ると嬉しいなぁ〜。
私もお金を出しても体験出来ないほどの宝物のような話がたくさんあります。
少し時間をかけて出すことになった映画「地下広場」のDVDブックに書きたいと思っています。
seiko
投稿日時: 2013/4/21 16:01
管理人
登録日: 2003/9/21
居住地:
投稿: 3623
【明治公園での逮捕(3月9日)−私の経験について「今後のため」報告します。】四.東京地検での取り調べ――「不起訴・釈放」へ

(この日のデモも子どもたちが声をあげて大らかな意思表示でした。だから、逮捕者が出たと聞いたときに驚きました!)

http://seiko-jiro.net/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=flat&topic_id=1953&forum=1
(連載その8)からは、上記のページで掲載しています。

多辺田 政弘さんの貴重な体験報告を「たんぽぽ舎メルマガ」より転載させて頂きます。

明治公園での逮捕(3月9日)−私の経験について「今後のため」報告
します。脱原発運動の今後に少しでも役立てば・・・(連載その6)
 └──── 多辺田 政弘

四.東京地検での取り調べ――「不起訴・釈放」へ

 翌三月十一日の朝は東京地検へ送致され、取り調べがあった。
留置場の同室の二人の話では、地検に送致される時は、護送車に被疑者が一緒
に集団で乗せられて護送られ、地検の控えの大部屋に一緒に入れられ「木の固い
ベンチ」に並べさせられ、検事に呼ばれるまでじっと黙って待ち、自分が取り調べ
が終わっても、最後の一人が終わるまで控えの部屋で待ち、夕方五時ごろに、
また集団で護送される、ということだった。
「この待ち時間が長く、かなりキツイ」と話していた。ただし、稀に「単独」送
致というのがあって、それは地検の取り調べ時間に合わせて送迎護送されるので、
あれは待ち時間が少なくて楽だと話していた。
 九時ごろ、地検へ護送される者の番号が次々に呼ばれたが、私は呼ばれなかっ
た。聞くと、何やら「単独送致」ということで暫く待つように言われた。同室の
「六法君」が「いいなあ、早く帰れますよ」と羨ましがった。「親分」と「六法
君」は今日は地検に呼ばれる日ではない。
 九時半ごろに、私は迎えに来た四谷署の三人の警察官に付き添われて小さな護
送車で湾岸署を出て東京地検に護送された。天気が良く途中大きな観覧車が見え
た。
 東京地検の内部(地下?)は、白いコンクリートの部屋が四角い廊下の左右に
びっしりと詰まった「巨大な(四角い)蜂の巣」を思わせる監獄のようだった。
入口の所で、手錠・腰紐を掛けられ数珠繋ぎにされた十人近くの集団が並ばされ
て点呼を取られていた。なんとも家畜のような扱いだった。
「単独送致」の部屋は、その「巨大な四角い蜂の巣」のなかの一つの「小さな
巣穴」のようなものだった。ガラス張りの部屋で廊下を挟んで左右に並んでいた。
到着したのは十時過ぎ頃だった。部屋の中は個室列車(コンパートメント)のよ
うに木の長椅子が向い合って並び、その奥に上半分ガラス張りのトイレと手洗い
になっていた。それは留置場の部屋とほぼ同じ構造になっていた。四谷署員の一
人が私の横に、もう一人が前に、そしてもう一人が廊下の椅子に座って、私が検
事に呼び出されるのを待った。「ここで待たされるのが長いんだ」と私の横に座
った四谷署員がぼそりと言って、じっと目をつぶって座っていた。
 そう言われてみれば、警察では何事も「待たせる」ということが平気になって
いて、恐ろしく時間に鈍感過ぎる、と思った。接見の弁護士さんや家族には情報
を与えず延々と何時間でも平気で待たせる。あんなにも人を待たせることに鈍感
になっているのは、警察官自身が警察内部で何も考えずにひたすら上からの指令
を待つことに日常的に馴らされているからなのだろう、とその時思った。そう言
えば、日本の官僚制システムとは、この「人間(他人)への鈍感さ」(つまり
「人権感覚の無さ」=「思いやりのなさ」)によって上から下まで習慣化されて
いる「鈍感なシステマチックな世界」なのだということに改めて思い至った。
(つづく)



明治公園での逮捕(3月9日)−私の経験について「今後のため」報告
します。脱原発運動の今後に少しでも役立てば・・・(連載その7)
 └──── 多辺田 政弘

ゆったりした検事の部屋で尋問を受ける
「竜雷太」に似た検事=山崎某と事務官
 
 検事に呼び出された時刻は、付き添いの署員が「お昼を取らせるべきか」と迷
い始めた十二時ちょっと前だった。通された検事の部屋はゆったりとした絨毯敷
きの部屋で、黒い背広を着た検事と事務官がそれぞれ大きめの机に向かって座っ
ていた。検事の名は確か山崎某と言った。中年の何かおっとりとした大柄な人物
で、その顔と姿を見た途端、どこか刑事ドラマで何度も見たような感じの男だな、
思った。すぐに名前を思い出せなかったが、役者の顔ははっきり浮かんだ。後で
男優の名前を思い出した。刑事ドラマによく出る「竜雷太」である。あまりに役
にぴったりな役者顔だったので危うく吹き出しそうになった。検事調取の間、手
錠は外されが、腰紐は座らされた椅子に結びつけられていた。
 検事は警察から送られてきた調書に目を通しながらゆっくりと確認するように
尋問を始めた。一つだけ事実に反すると思われることが記載されていた。
 それは、逮捕時の警察官の言い分(逮捕状況)で「被疑者が両手を前にして突
き飛ばした」という個所であった。これは四谷署での取り調べの時に、取り調べ
の刑事から示された「逮捕警官からの報告」の内容と同じだった。その時と同じ
ように、私は、「突き飛ばしたのではなく、デモ隊のほうに急いで加わろうとし
て制止に近寄って来た警官にぶつかってしまったのです。その時、私は倒れ取り
押さえられたので、私の記憶では警官が倒れたのは見ていません」というような
趣旨を述べた。検事は、多分警察から送られた調書のなかにそのこと(私の弁明)
も書いてあったのを見ていたようで、私の言い分も書き加えられた。検事調書に
書かれたことは、その都度読み上げられて確認しながら進んだ。
 最後に私が警察の取り調べの時にも最後に付け加えた「馬鹿なことをしたと反
省しています」という一言もちゃんと書き加えられていた。私の言った意味は
「余計なドジを踏んで時間をロスし、皆を心配させたのは自分でも馬鹿なことだ
った」という意味だったが、そういう率直な反省をしたのも嘘ではない。もちろ
んそれは、警官の行為が正当だったと認めたという意味では全くない。逮捕した
若い警官の行動の妥当性は敢えて争わなかったのである。検事がワープロ(パソ
コン)で打ち上げた調書の文章を読み上げ、私にこれでよいかの確認を取り、読
みあげられた「簡潔な記載」は間違ってはいなかったので同意文書に指紋押捺を
した。
 最後に、検事は、さり気なく「手続きとしては、形式的にですが裁判所と協議
の上、警察などへの報告・了承などが必要なので暫く待つように。また、釈放後、
もしかしたら警察や裁判から関連して呼び出しがあるかもしれませんが、その時
は出頭できますね」といった趣旨のことを述べた。私は、その意味がよくは分ら
ない部分も正直あったのですが、取りあえず「分りました」と答えた。「竜雷太」
検事が人を貶めるような人には見えなかったからである。
 検事の聴取は十五分から二十分ほどで、十二時十分頃には終わったと思う。前
の控室に戻り、四谷署が用意した昼飯を取った。昼飯は定番の「食パン」三切れ、
パック詰めの「ジャムとマーガリン」、それに紙パック「ジュース」であった。
待ち時間の間、三人の四谷署員のうち私の横の警官を除く二人が交代でどこかに
食事に行った。その間、残りの四谷署員が、帰りの段取りを四谷署と取っていた。
 検事判断(起訴・不起訴)の結果を待ってから湾岸署に護送するような段取り
になったようだった。何度かもどかしそうに地検の事務局に「結果が出たかどう
か」連絡を取り合っていた。(つづく)

13-04-24(おおき せいこ)
★じっくりと読んでほしいなぁ〜。
多辺田さんの指摘は学ばなければ。
ここを打ち砕いていくには・・・
これは、いろいろな場面で考えさせられることです。
「鈍感なシステマチックな世界」は、私たちの日常にも・・・
今度の選挙戦の前に語り合いたいですね。
この問題も・・多辺田さんと話しができると嬉しいなぁ〜。
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