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反戦・平和
反戦・平和 : 平和を創るのはあなた・・・そして私。
投稿者 : seiko 投稿日時: 2005-12-04 05:37:38 (2683 ヒット)


平和を創るのはあなた・・・そして私。      大木晴子

 極月に入り最初の土曜日は、何時もより少し早めに家を出て神保町にある日本教育会館へ向かいました。3日から始まった写真展「60年目に問い直す 沖縄戦」を見る為に・・・。
初めて見る写真も多く目も心も釘付け状態になってしまいました。
沖縄の大きな犠牲の上に育まれてきた自分を見つめました。
 丸木美術館の「原爆の図」の前に立った時と同じように「二度とこの悲惨な出来事を繰り返してはいけない」と身体中の細胞が叫びました。皆さん、声を掛け合って写真展に出かけてください。子どもたちと一緒に見てください。身体で感じて下さい。二度と戦争をしない国になる為に・・・・.
 入り口に掲示された大田昌秀さんの言葉「写真展を開くにあたって」をデーターで送っていただきました。掲載させていただきます。

写真展を開くにあたって

 敗戦後六十年が経った。私が主宰する小さな大田平和総合研究所は、この機会に心ある方々のご協力を得て沖縄と東京、関西及びその他で沖縄戦の写真展を開くことにした。余りにも多くの人たちが、沖縄戦、いや戦争の実相を知らなさ過ぎると思われるからだ。
 写真展は、たんに忘却の彼方に押しやられた戦争を思い出し、非業の死を遂げた人たちを偲ぶためではない。それもあるが、何よりも敗戦後の沖縄の現実を知り、国の未来を考えてみたいがためである。おそらくあの戦争を生き延びた人たちの中には、私と同様に沖縄の非人道的現実と急速に危険をはらみつつあるわが国の将来にたいし、強い不安を抱いている者が少なくないにちがいない。
沖縄戦とは、いったい何だったのか。
 あれは、何のため、誰から誰を守るための戦争だったのか。なぜ沖縄の十数万もの人間があたら何よりも大事な命を奪われねばならなかったのか。ーー沖縄の人たちは、これまでいくどこれらの問いを発してきたことだろうか。
 戦後になって知ったことだが、沖縄戦は、当初から全く勝ち目のない無謀な戦闘だった。沖縄の守備に当たった日本軍は、地元から根こそぎ動員された防衛隊や学徒隊を含めても約十一万人。それに比べ米軍は、一千五百隻の艦船で完全に制海権を押さえ、一千機にも及ぶ各種軍用機で制空権も掌握した上で、沖縄の人口を上回る延べ五十四万八千人の大軍で押し寄せたのだ。したがって到底勝てる筈がなかった。東京の大本営は、開戦前からそのことを百も承知であった。作戦参謀たちは、一度米軍が上陸したら、沖縄の軍官民は、「玉砕するしかない」と認識しながら、あえて開戦に踏み切ったのだ。
なぜか。それは他でもなく米軍の沖縄上陸当時、日本本土の防衛体制は、まだ六十パーセント程度しか仕上がっていなかった。
ワシントンの米統合参謀本部は、米軍が一九四五年四月一日に沖縄本島へ上陸後、同年五月二十五日に日本列島への上陸作戦を展開すべく「滅亡作戦(ダウンフォール)」の実施を配下戦闘部隊に命じた。日本本土への直接侵攻は、二次の前哨戦で開始されることになった。一つは同年十一月一日に実施予定の南九州は有明湾から上陸する「オリンピック作戦」。今一つは、翌四六年三月一日に予定された関東平野から上陸する予定の「コロネット作戦」だ。
 当時、日本軍首脳が一番恐れていたのは、日本側の本土決戦準備が整う前に米軍が南九州に本格的作戦を展開するための橋頭堡(きょうとうほ)を築いてしまうことであった。そのため、一日でも長く米軍を沖縄に釘付けにすることによって本土への上陸を遅らせ、その間に本土の防衛体制を完璧にしようと図ったのだ。つまり沖縄戦は、事実上、本土防衛のための「捨て石」作戦に他ならず、沖縄は、本土を守る防波堤に利用されたのである。
だが、その代償は、余りにも大きく高価についた。一九四五年三月二十六日の戦闘開始から同年九月七日の正式の終結に至る間に沖縄は、人口の三分の一近くの十数万人の尊い人命を犠牲にした。その多くは、幼い子供たちと高齢者。死因の態様は、艦砲撃や爆撃による戦死、餓死、自決、集団死、友軍による殺りく等々、百人百様であった。
 とりわけ悲惨だったのは、県下の十二の男子中等学校の生徒と十の女学校の十代の生徒たちだ。男女生徒たちは、法的根拠もないまま、守備軍司令官の命により否応もなく戦場に投入されたからだ。その結果は、文字どおり無残の一語に尽きた。男女生徒二千二百二十三人(男子一千七百六十六人、女子四百五十七人)のうち、約半数の一千六二人があたら若い命を失った(男子八百七十六人、女子百八十六人)。あまつさえ小学校の学童たちも県外へ疎開する途中、敵潜水艦に攻撃され対馬丸を含め、二十六隻もの疎開船が撃沈された。あげく大人も含め四千五百五十人ほどが海没した。だが、被害はそれだけではなかった。
 一九六〇年に厚生省が調査したのによると、戦乱に巻き込まれた十四歳未満の幼児たち一万一千四百八十三人の犠牲者を死因別に見ると、砲爆撃による死者より、頼みとする友軍兵士によって殺害された者や自決に追いつめられた者、避難壕から追い出されたり、食糧を奪われるなどして命を失った者がほとんどだったことが分かる。それも正確な数ではなく、恐らく実数は、その数倍にのぼるにちがいない。あまつさえ、一家全滅の世帯も五十三市町村の中、二十四市町村にも及んだ。中でも西原町の桃原集落では一家全滅が五十一パーセント、糸満市の字米須では、それが四十七パーセントを占めたほど。
だが、戦争の悲惨さ、怖さは、むしろ生き残った人々や、遺族の心に与えた傷の大きさ、深さである。おそらく彼らの多くは、過去六十年間、最愛の肉親や親戚、友人、知人の非業の死を悼んで一日たりとも安眠できなかったろう。生存者や遺族たちの悲しみや悔しさ、怒りは、勝者や敗者の別なく、いつまでも癒しようがないからだ。
戦火で変貌し尽くした沖縄の山野は、どこもかしこも今以て死者たちの血で染まったまま。非業の死を遂げた無数の民間人が地底から発する怒りの声は絶えることなく聞こえてくる。数千の遺体は、六十年経った今も未収骨のままだし、毎年二、三億円の金をかけて処理している戦時中の不発弾の処理にしても専門家は、あと半世紀以上も処理し続けなければ完了しないという。その一方では、戦争から奇跡的に命は助かったけれども、戦場での非人道的なおぞましい殺りく場面を目の当たりにしてショックで心を病み戦後、病院に入ったまま、この間、一歩も外へ出てこれない人たちも少なくない。一体この人たちの人生とは何だろうか。沖縄戦は、今も続いているのだ。
沖縄県の平和祈念資料館には、つぎのような言葉が掲げてある。

 「沖縄戦の実相にふれるたびに
 戦争というものはこれほど残忍で 
これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです 
この なまなましい体験の前ではいかなる人でも
戦争を肯定し美化することは できないはずです
戦争をおこすのは たしかに人間です 
しかし それ以上に戦争を許さない努力のできるのも
私たち人間ではないでしょうか 
戦後このかた私たちはあらゆる戦争を憎み
平和な島を建設せねばと思いつづけてきました 
これが あまりにも大きすぎた代償を払って
得たゆずることのできない私たちの信条なのです 」

    大田平和総合研究   大田 昌秀
(大田昌秀さんは参議院議員、主な著書『沖縄民衆意識』・『醜い日本人』・『写真集これが沖縄戦だ』・『沖縄の挑戦』・『沖縄差別と平和憲法』・『沖縄戦下の米日心理戦争』など多数。)

http://blog.livedoor.jp/okinawamo555/

時間等、フォーラム(ひろば)をご覧下さい。期間は短いです!

http://www.seiko-jiro.net/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=123&forum=1&post_id=125#forumpost125

 写真展会場では、吉川勇一さん、世織書房の伊藤晶宣さんにお会いしました。そして雲さんこと村雲司さんも・・・一緒に新宿へ向かいました。
5時少し前、地上での意思表示が始まりました。ビッグイシューを販売する宮川さんは、床屋さんに行って来たとすっきりした頭で少し寒そう!!




 Kさんが、Oさんがそして先週初めて参加した友人が今日は、一緒にフラメンコの公演を観に行った友達と一緒にスタンディングをしました。これから来られる時に立とうと意思表示されていました。良いですね!生活の中で無理をしないで自然体の意思表示が一番だと思います。
K松さん、千代さんが立たれて8名の明るい意思表示になりました。
千代さんは、「平和を創るのはあなたです」のプラカードに鏡にyou!と書いて持っていました。鏡に映る人が気付いてくれるといいのになぁー。




6時、地下へ降ります。
 K島さんが立ち始めていました。言葉をフォトアルバムに掲載しています。
 沖縄に何時も力強い支援を送るTさんは「基地強化に反対 今こそ 日米安保廃棄」とプラカードを掲げて、今日はお連れ合いが初めて来られ私の「私たちは戦争に協力しません」の意見広告を持って立たれました。これからもご一緒に意思表示!嬉しいです。




 Kさんの新しいプラカードは目立ちます。隣りのYさんの文字も!
ムキンポさんもレインボーのKさんも広場に明るい意思表示です。
ジローのプラカードには、沖縄から届いた「合意していない プロジェクト」のステッカーを貼りました。
 今日は、このプロジェクトを支援している“手織舎すずめ”さんがこしらえた「タンスにジュゴン」を西口の皆さんに買っていただきました。このプロジェクトを教えて下さったkiss-me さんは、早速「タンスにジュゴン」と雲さんの「平和」の文字を持って意思表示でした。




 「タンスにジュゴン」この日30個が届きました。
一日で完売!デモや集会で広めたいと思いましたが、手作りなので一度にたくさんは、無理とのこと・・・・残念!!でもとても優しくて、可愛くて側に置くと素敵なことがありそうなそんな気持ちになる「タンスにジュゴン」です。皆さんも少しずつ注文してください。下記のサイトからお訪ねください。

http://disagree.okinawaforum.org/actions.html




(ムキンポさんにシャッターを押していただきました。)

 この日は、放送された時と同じ服で駅に向かいました。
途中「こんにちは」と元気な声をかけられました。
知らない人でした。
爽やかな笑顔ですれ違うとその笑顔から「いってらっしゃい」と言われたような気がしました。嬉しかった!!
(05-12-04・おおきせいこ)

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