エッセイ
エッセイ : 『鈴木一誌・エッセイ』第10回 言葉の国産化
『鈴木一誌・エッセイ』第10回
言葉の国産化
デザイン、ことに雑誌や書籍のデザインを、自嘲を込めて「切った貼ったの世界」と呼ぶことがある。任侠映画で見知った「斬った張ったの世界」のもじりで、たしかにエディトリアルやブックデザインでは、ひんぱんにゲラや図版を切って貼る。昨今はデジタル化の浸透で、「切った貼った」も減りつつあるいっぽう、モニターのなかで、あいかわらず〈切る=カット〉と〈貼る=ペースト〉を繰り返している。
切るには鋏が、貼るにはピンセットが必須だ。デザインには、鋏とピンセットが重要な道具だというわけだ。出番が減ったとはいえ、鋏とピンセットは、デザイナーにとっての精神的な拠り所だと感じる。長いあいだ勤めてくれたスタッフが独立する際は、使い慣れた鋏とピンセットをプレゼントする。二〇〇八年には、九年間いっしょにしごとをした女性三人が、鋏とピンセットを持って羽ばたいていった。
鋏とピンセットについて、日ごろ不思議に思うことがある。エンピツをはじめ、周辺には高品質な国産品が溢れているにもかかわらず、こと鋏とピンセットに限っては、これぞという製品に出会ったためしがない。鋏は「ドボ」や「アドラー」といったブランドのドイツ製だし、ピンセットもスイス製の「エレム」だ。どちらも、デザインの手本と仰ぐ国の製品であるのが象徴的だ。
理由はいろいろあるのだろうし、和鋏や毛抜きには上質のものがあるはずだが、ここでは、飛躍気味にこう言ってみたい。国産品で優秀な鋏とピンセットが見つからないのは、「デザイン」という言葉を日本語に翻訳できなかったからだ、と。明治期以降、デザインを、意匠、図案設計、商業美術など、さまざまに言い換えようとしてきたが、いずれも消えていった。「デザイン」なる概念をついに国産化できなかったゆえに、作業の要である鋏とピンセットを作り得なかった、という仮説だ。優秀な鋏とピンセットをつくろうとの意欲に駆り立てられなかったと言うべきかもしれない。
友人に、スポーツ・ジャーナリズムに詳しい編集者がいる。彼によれば、たとえば野球の記事にしても、アメリカの新聞と日本の新聞では、書きぶりが大きくちがう。アメリカの新聞では、一〇年後に記事を読んでも、ゲームの流れとポイントがわかるように書かれている。対して日本の新聞では、一〇年後に読むに耐えない。なぜならば、「亡き母へ捧げた逆転ホームラン」といったぐあいに、どちらかというと人間ドラマに関心が寄っているからだ。彼は言う。わが国へのスポーツ・ジャーナリズムの定着をめざして、自分はアメリカの新聞でゲームの記事を読む訓練をしておく。
テレビで大リーグの実況を見ると、日本のとは印象がちがう。個人の思い入れを振り払うかのように、淡々とゲームが進行していく。選手たちとともに、グラウンドという場もまた主役のようだ。ゲームとは、プレイヤーと場との遭遇によって起きる予想のつかないドラマだ。美技は、もちろん選手個人の功績なのだが、同時にゲームに属している感がある。場が主役だからこそ、市民は大挙して球場に駆けつけるのではないか。良い悪いではなく、わが国民は、〈ベースボール〉を〈野球〉に、〈ゲーム〉を〈試合〉へと国産化したのだ。
「デザイン」は、なぜ日本語に変換できなかったのか。同じように、身近な言葉の国産化の度合いを考えてみるのもよいだろう。略語化された「デモ」は、はたして国産化したのか、かたや「テロ」は国産化してほしくない……。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
『鈴木一誌・エッセイ』第九回
『鈴木一誌・エッセイ』第八回
『鈴木一誌・エッセイ』第七回
『鈴木一誌・エッセイ』第六回
『鈴木一誌・エッセイ』第五回
『鈴木一誌・エッセイ』第四回
『鈴木一誌・エッセイ』第三回
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』113号(2009・04・01)に掲載されたエッセイを
筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
写真のコラージュ:大木晴子
10-11-19(おおき せいこ)
言葉の国産化
デザイン、ことに雑誌や書籍のデザインを、自嘲を込めて「切った貼ったの世界」と呼ぶことがある。任侠映画で見知った「斬った張ったの世界」のもじりで、たしかにエディトリアルやブックデザインでは、ひんぱんにゲラや図版を切って貼る。昨今はデジタル化の浸透で、「切った貼った」も減りつつあるいっぽう、モニターのなかで、あいかわらず〈切る=カット〉と〈貼る=ペースト〉を繰り返している。
切るには鋏が、貼るにはピンセットが必須だ。デザインには、鋏とピンセットが重要な道具だというわけだ。出番が減ったとはいえ、鋏とピンセットは、デザイナーにとっての精神的な拠り所だと感じる。長いあいだ勤めてくれたスタッフが独立する際は、使い慣れた鋏とピンセットをプレゼントする。二〇〇八年には、九年間いっしょにしごとをした女性三人が、鋏とピンセットを持って羽ばたいていった。
鋏とピンセットについて、日ごろ不思議に思うことがある。エンピツをはじめ、周辺には高品質な国産品が溢れているにもかかわらず、こと鋏とピンセットに限っては、これぞという製品に出会ったためしがない。鋏は「ドボ」や「アドラー」といったブランドのドイツ製だし、ピンセットもスイス製の「エレム」だ。どちらも、デザインの手本と仰ぐ国の製品であるのが象徴的だ。
理由はいろいろあるのだろうし、和鋏や毛抜きには上質のものがあるはずだが、ここでは、飛躍気味にこう言ってみたい。国産品で優秀な鋏とピンセットが見つからないのは、「デザイン」という言葉を日本語に翻訳できなかったからだ、と。明治期以降、デザインを、意匠、図案設計、商業美術など、さまざまに言い換えようとしてきたが、いずれも消えていった。「デザイン」なる概念をついに国産化できなかったゆえに、作業の要である鋏とピンセットを作り得なかった、という仮説だ。優秀な鋏とピンセットをつくろうとの意欲に駆り立てられなかったと言うべきかもしれない。
友人に、スポーツ・ジャーナリズムに詳しい編集者がいる。彼によれば、たとえば野球の記事にしても、アメリカの新聞と日本の新聞では、書きぶりが大きくちがう。アメリカの新聞では、一〇年後に記事を読んでも、ゲームの流れとポイントがわかるように書かれている。対して日本の新聞では、一〇年後に読むに耐えない。なぜならば、「亡き母へ捧げた逆転ホームラン」といったぐあいに、どちらかというと人間ドラマに関心が寄っているからだ。彼は言う。わが国へのスポーツ・ジャーナリズムの定着をめざして、自分はアメリカの新聞でゲームの記事を読む訓練をしておく。
テレビで大リーグの実況を見ると、日本のとは印象がちがう。個人の思い入れを振り払うかのように、淡々とゲームが進行していく。選手たちとともに、グラウンドという場もまた主役のようだ。ゲームとは、プレイヤーと場との遭遇によって起きる予想のつかないドラマだ。美技は、もちろん選手個人の功績なのだが、同時にゲームに属している感がある。場が主役だからこそ、市民は大挙して球場に駆けつけるのではないか。良い悪いではなく、わが国民は、〈ベースボール〉を〈野球〉に、〈ゲーム〉を〈試合〉へと国産化したのだ。
「デザイン」は、なぜ日本語に変換できなかったのか。同じように、身近な言葉の国産化の度合いを考えてみるのもよいだろう。略語化された「デモ」は、はたして国産化したのか、かたや「テロ」は国産化してほしくない……。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
『鈴木一誌・エッセイ』第九回
『鈴木一誌・エッセイ』第八回
『鈴木一誌・エッセイ』第七回
『鈴木一誌・エッセイ』第六回
『鈴木一誌・エッセイ』第五回
『鈴木一誌・エッセイ』第四回
『鈴木一誌・エッセイ』第三回
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』113号(2009・04・01)に掲載されたエッセイを
筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
写真のコラージュ:大木晴子
10-11-19(おおき せいこ)
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