エッセイ
エッセイ : 『鈴木一誌・エッセイ』第11回 〈わかってもらう〉こと
『鈴木一誌・エッセイ』第11回
〈わかってもらう〉こと
ハサミを買ってくる。早く使ってみたくて、まずハサミ自身に付いている値札の糸を切ろうとするが、刃先はもちろん値札に届かず、既存のハサミやナイフで切るはめになる。どんなに優れたハサミも、自身に付いた値札は切ることができない。この小さな教訓は、人生のさまざまな局面で姿を現わす。そもそも人間は、自身の顔を自分の肉眼で見ることはできないのだし、みずからの後ろ姿も、写真や鏡なしには目撃できない。
二〇〇八年の年末、築地魚市場が、外国人観光客がマグロのセリ市を見学するのを禁止した。ニュースは、立ち入り禁止のラインを越えるなどのほかに、カメラのストロボを発光させるのが原因だと伝えていた。たしかに、指先の動きひとつで巨額が動くセリの現場では、閃光がセリ人の眼を射ることは避けたいだろう。
ニュース映像は、外国人観光客の持つコンパクトなデジタルカメラが、ピカッピカッと光るさまを映していた。考えてみれば、世界に流通しているデジタルカメラのほとんどが日本製なのだから、事態は、外国人観光客のマナーよりは、ストロボを発光禁止にさせる操作をわかりやすくユーザーに伝えていない日本のカメラメーカーのせいなのではないか。カメラメーカーが、製品デザインはともかく、取扱説明書=マニュアルの編集とデザインをおろそかにしたために、セリ市の見学禁止を招いた、こんな因果が考えられる。観光立国を目ざす日本が、自国製品のせいで、思わぬしっぺ返しを受けた図に見える。まわりまわるのだ。
ハサミが自身の値札を切れないように、どうも〈自身〉というのは、やっかいでスッキリとしない存在のようだ。〈三里塚〉なる問題はいまだ持続していると認識していながら、国外には成田空港から出発しなければならないし、アメリカ合衆国を批判する文章を、リーバイスのジーンズをはいて、マイクロソフト社のワードでしたため、そのパソコンを駆動する電力の何割かは原子力発電から生みだされている。
しごとの関係で、中学の数学教科書を観察していて、おどろく。本文の〈階層〉が深いのだ。〈階層〉とは、見出しのレベルの多さである。〈階層〉が深いテクストとして悪名高いのが法律で、たとえば民事訴訟法では、「第二編 第一審の訴訟手続」→「第一章 訴え」→「第三節 争点及び証拠の整理手続」→「第一款 準備的口頭弁論」と降りてきて、ようやく個々の条文になり、さらに???と分かれている。つごう六階層からなっているわけだ。この階層の深さが、法律の取っつきにくさを演出し、外堀、内堀のごとく、ことばの砦を築き、素人を寄せつけない。
同じことが、中学の数学教科書でも起きている。生徒たちが読むのは、たとえば「3章 1次関数」→「2 1次方程式と1次関数」→「2 連立方程式の解とグラフ」と、三階層を下降した本文なのだ。階層を理解するとは、全体像の理解にほかならないのだが、いままさに数学を学ぼうとしている生徒に、全体像としての階層を当たり前の前提として押しつけている。こうした転倒が、あらゆる教科書で起きているのかもしれない。
ハサミが自身の値札は切れないとの小さな教訓は、こうも言い換えられよう。ハサミを使えるのは、ハサミを二挺以上所有する者だけに限られる。なぜならば、値札を切るためには他のハサミを必要とするから。法律や教科書の階層の深さは、すでにわかっている人間にしかわからない、との奇妙なジレンマの存在を告げる。知の格差の誕生である。〈わかっている〉ことを、他者に〈わかってもらう〉ことのむずかしさの前で、ブックデザインになにができるのか、試行はつづく。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
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「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』114号(2009・06・01)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
写真2002年春・ベトナム 撮影:大木茂
11-01-14(おおき せいこ)
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