『鈴木一誌・エッセイ』第四回
紙という鏡
雑誌連載中からおもしろいと噂が高まり、これは絶対にベストセラーになるといった風評は、当てにならないものだが、筋書きどおりベストセラーになった福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)は、保証付きのおもしろさだ。『本』連載中から毎月楽しみにしていたのだが、最終回が手もとに届く前に、単行本が、その最終回をも収録するかたちで刊行されたのにはおどろいた。出版社は、ノドから手が出るほどベストセラーがほしかったのだろう。
その福岡さんが、「混ぜる」行為に懐疑心をもとう、との文章を新聞に寄せていた(08年3月8日付『朝日新聞』朝刊)。出だしはこうだ。福岡さんが、京都の高級料理店の関係者に、つくね汁の精妙な味をほめたとき、総料理長は、はばかるように「練り物は料理としては本来ごまかしなのです」と返した。
福岡さんの筆は、この「練り物」をキーワードに、一気に一連の食品問題におよぶ。話題の毒ギョーザも偽装挽き肉も「練り物」ではないか。名物まんじゅうもチョコレートも「練り物」だったなぁ、と読み手の頭も回転していく。狂牛病を世界に拡散させた肉骨粉も、病死した家畜の死体を混ぜた「練り物」だったし、サブプライム債権も、不良債権を少し混ぜた「練り物」だったはずだ・・・・、こう記述は伸びていく。
ブックデザインというしごとがら、製紙メーカーや洋紙販売代理店のひとと会うことも多い。マスコミをにぎわしている古紙の配合率問題では、紙関係者はいちように頭を抱えている。たとえば商品名である。「モダニィR100」というように、古紙の配合率がズバリ商品名となっているものは、すべて商品名ごと改変を迫られている。宣伝も打ちにくいし、見本帖も作り替えなければならない。
古紙を配合したり、農作物の残渣(ざんさ)、例としてはサトウキビの繊維バガスなどを利用した<エコロジー・ペーパー>と呼ばれる商品群が認知されたのは、東京都の青島都知事以降らしい。青島さんが、<エコロジー・ペーパー>の名刺を使っていない会社との付き合いは一考する、と言ったとか。1990年代なかばのできごとである。やがて、古紙を配合している紙は白さが不足するはずだ、とみなが思い込むようになる。優秀な技術によって古紙を配合しているにもかかわらず、十分に白い紙は、わざわざ着色して白さを減じるという倒錯が生じる。
「古紙100パーセント」配合がすばらしいできごとだとしよう。ならば、みなが「古紙100パーセント」を求める権利があるわけだ。では、その古紙はどこからやってくるのか。わたしたちの身のまわりにある紙は、全量が回収・再生されているのではない。トイレットペーパーは流され、ティッシュペーパーは捨てられる。ケチャップやソースまみれの紙ナプキンは、全量を回収してもいないのに、「古紙100パーセント」を求めつづけるのは、なにか変ではないか。
紙は、究極の練り物だ。なにしろ、紙の発明そのものが、ボロ布や麻、古くなった漁網などを「ごちゃ混ぜ」にするリサイクル行為から始まったのだから(犬養道子『本 起源と役割をさぐる』岩波ジュニア新書、2004年)。紙はいつの時代も、その平らな面によって、わたしたちの意識を鏡のように映しだしているのかもしれない。古紙配合率の問題では、製紙業界の体質の古さを笑ってすますこともできようが、トイレットペーパーを流し、ティッシュペーパーを捨てていながら、「古紙100パーセント」を夢見たわたしたちにも責任があるのではないか。紙という練り物は、わたしたちの幻想をも、そこに練りこんだのである。 グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
(上下ともベトナム・撮影:大木茂)
『鈴木一誌・エッセイ』第三回
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』NO107(2008年04月発行)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
09-05-31(おおき せいこ)
『鈴木一誌・エッセイ』第三回
装われた<下層化>
満員電車はごめんだが、適度な乗客数の電車に乗るのはおもしろい。車内吊りで雑誌広告を見たり、景色を楽しむいっぽう、やはり人間観察がおもしろい。どのように時間をやりすごしているのか、どんな本や新聞を読んでいるのか。ゲームもしくは居眠りが多い。わたしが20年ほど前に装丁した本を読んでいる若者を見かけて、おどろいたこともあるし、座席一列の全員が、ジーンズ姿でケータイ画面に見入っていた光景もある。
総武線が市ヶ谷近辺を通過する際、今風の格好をした若い女性が、「あの川、なんて川?」「知らないよ」と、外濠を指してしゃべっている。どこからやってきたひとなのだろう。話かわって下北沢に向かう小田急線、窓際に立っているふたりの若い男性に目が引き寄せられる。なぜ彼らに関心が吸引されたのだろう。服装はこざっぱりしていて、スキがなく、靴から腕時計、髪型までオシャレにきまっている。このふたりがかくも目立つのは、視点を変えれば、彼ら以外の若者が小奇麗ではなく、小汚いせいではなかろうか。こんなことを考えながら、電車に揺られていた。
激動の1960年代を、「名もない一般の下層に住まう人間が文化や流行を左右するようになった時代」だとする見方がある。今井啓子は「1920年代と1960年代は、どちらも若者がファッションをリードしましたが、二つの年代の決定的な差は、20年代が一部上流階級の若者が中心だったのに対し、60年代は、名もない一般の若者だったことです」(『ファッションのチカラ』ちくまプリマー新書、2007年)と書く。ミニスカートの女王ツイギーの来日が67年だ。ビートルズの登場は、ポップ・カルチャーが「階級の壁を破って、下層からあらわれた」(海野弘『二十世紀』2007年、文芸春秋)象徴であった。
昨今の若年男性のファッションがいっせいに<下層化>しているのには、だれもが気づく。擦り切れたジーンズにはじまって、鳶職人風のダブダブの作業ズボンや○○醤油店といった前掛けを仕事中でもないのに身に付けている。鳶職や醤油店はけっして<下層>ではないのだが、<労働>がファッション化され、<下層>が演出されている。このファッションの<下層化>は、その基底になんらかの<抵抗>を潜めていると思わざるをえず、対抗文化的である点では1960年代と地続きだし、1960年代に責任の一端があると言えよう。しかし、先ごろ見かけたのでは、上から下まで旧制高校ふうという例があった。ツンツルテンの学生服姿、裸足で高下駄を履き、唐草模様の風呂敷包みを持っていた。ここまでくると、<学園もの漫画>のコスプレなのではないかとも感じられ、その抵抗がどのくらい現実に根ざしているのか、考えこむ。
小田急線のふたりにもどろう。観察をつづけていると、なにか変な感じがする。片方がもうひとりの肩に手を回したりして、奇妙にスキンシップ的なのだ。やがてふたりが英語をしゃべっているのが聞こえてくる。ここからは想像だが、カリフォルニアあたりの大学生が、祖父の地を訪ねてきた。あるいは、容貌が日本人のように見えるだけで、単なるリッチな観光客なのかもしれない。そしてとつぜん思い当たる。彼らは、かっての太陽族の再来なのではないか。およそ50年前、ふつうの若者にとって、湘南を遊びまわる太陽族は、この英語を話す彼らのように小奇麗に見えたのではないか。 グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
(撮影:大木茂)
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』NO106(2008年02月発行)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
09-04-13(おおき せいこ)
装われた<下層化>
満員電車はごめんだが、適度な乗客数の電車に乗るのはおもしろい。車内吊りで雑誌広告を見たり、景色を楽しむいっぽう、やはり人間観察がおもしろい。どのように時間をやりすごしているのか、どんな本や新聞を読んでいるのか。ゲームもしくは居眠りが多い。わたしが20年ほど前に装丁した本を読んでいる若者を見かけて、おどろいたこともあるし、座席一列の全員が、ジーンズ姿でケータイ画面に見入っていた光景もある。
総武線が市ヶ谷近辺を通過する際、今風の格好をした若い女性が、「あの川、なんて川?」「知らないよ」と、外濠を指してしゃべっている。どこからやってきたひとなのだろう。話かわって下北沢に向かう小田急線、窓際に立っているふたりの若い男性に目が引き寄せられる。なぜ彼らに関心が吸引されたのだろう。服装はこざっぱりしていて、スキがなく、靴から腕時計、髪型までオシャレにきまっている。このふたりがかくも目立つのは、視点を変えれば、彼ら以外の若者が小奇麗ではなく、小汚いせいではなかろうか。こんなことを考えながら、電車に揺られていた。
激動の1960年代を、「名もない一般の下層に住まう人間が文化や流行を左右するようになった時代」だとする見方がある。今井啓子は「1920年代と1960年代は、どちらも若者がファッションをリードしましたが、二つの年代の決定的な差は、20年代が一部上流階級の若者が中心だったのに対し、60年代は、名もない一般の若者だったことです」(『ファッションのチカラ』ちくまプリマー新書、2007年)と書く。ミニスカートの女王ツイギーの来日が67年だ。ビートルズの登場は、ポップ・カルチャーが「階級の壁を破って、下層からあらわれた」(海野弘『二十世紀』2007年、文芸春秋)象徴であった。
昨今の若年男性のファッションがいっせいに<下層化>しているのには、だれもが気づく。擦り切れたジーンズにはじまって、鳶職人風のダブダブの作業ズボンや○○醤油店といった前掛けを仕事中でもないのに身に付けている。鳶職や醤油店はけっして<下層>ではないのだが、<労働>がファッション化され、<下層>が演出されている。このファッションの<下層化>は、その基底になんらかの<抵抗>を潜めていると思わざるをえず、対抗文化的である点では1960年代と地続きだし、1960年代に責任の一端があると言えよう。しかし、先ごろ見かけたのでは、上から下まで旧制高校ふうという例があった。ツンツルテンの学生服姿、裸足で高下駄を履き、唐草模様の風呂敷包みを持っていた。ここまでくると、<学園もの漫画>のコスプレなのではないかとも感じられ、その抵抗がどのくらい現実に根ざしているのか、考えこむ。
小田急線のふたりにもどろう。観察をつづけていると、なにか変な感じがする。片方がもうひとりの肩に手を回したりして、奇妙にスキンシップ的なのだ。やがてふたりが英語をしゃべっているのが聞こえてくる。ここからは想像だが、カリフォルニアあたりの大学生が、祖父の地を訪ねてきた。あるいは、容貌が日本人のように見えるだけで、単なるリッチな観光客なのかもしれない。そしてとつぜん思い当たる。彼らは、かっての太陽族の再来なのではないか。およそ50年前、ふつうの若者にとって、湘南を遊びまわる太陽族は、この英語を話す彼らのように小奇麗に見えたのではないか。 グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
(撮影:大木茂)
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』NO106(2008年02月発行)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
09-04-13(おおき せいこ)
『鈴木一誌・エッセイ』第二回
日本人の顔
写真家の荒木経惟さんが「日本人ノ顔プロジェクト」にとり組んでいる。日本全国のひとびとのポートレートを、各県ごとに荒木さんがひとりで撮り、さらに各県ごとの分厚い写真集にまとめていこうという計画だ。被写体は、ひとりもいれば、カップルや家族、あるいは幼い兄妹だけのケースもある。すでに『大阪ノ顔』(2002年)『福岡ノ顔』(03年)『鹿児島ノ顔』(03年)『石川ノ顔』(04年)『青森ノ顔』(06年、いずれも「日本人の顔プロジェクト」刊)と出版され、現在『佐賀ノ顔』が進行中だ。ほぼ一年に一冊のペースだから、四七都道府県すべてを撮り終わるのには、あと四〇年はかかる計算で、途方もなく遠大な計画なのだが、すでに撮り終えたショットを見るだけでも、二一世紀初頭の日本人がどんな顔で、いかなる家族観をもち、服装や持ち物などの嗜好がどうだったのかが伝わる、空前絶後の記録となることがわかる。
無料で荒木さんに自分もしくは家族を撮ってもらえるとあって、応募が多数集まり、「日本人ノ顔プロジェクト」のメンバーが、結果的におよそ四〇〇組を選ぶのだが、選ぶといっても容姿やスタイルによるのではなく、撮られるひとの住まいが県全域に、年齢や職業も適度に散ったほうがよいとの配慮からだ。
ブックデザインを手がけることもあって『石川』『青森』『佐賀』の撮影に立ちあったことがある。時期をずらしながら県内の三箇所で撮影することが多く、青森県では、弘前市、青森市、八戸市だった。百貨店の一区画や公民館などを借りて仮設のスタジオをこしらえ、朝から夜まで百数十組、のべ二百人以上をつぎからつぎに撮るのだが、荒木さんの撮影ぶりは実にていねいだ。どんなひとにも、フィルム二本を費やし、声をかけ、相手を笑わせながらシャッターを押していく。
子どもには「ボク、肩車でいいねー。おしっこすんなよ」と語りかけ、母子のゆるんでいく表情をフィルムに定着させていく撮影風景を見ながら、人間の顔はずいぶんと変わるもんだな、と感じる。大型カメラのシャッター音がガシャンガシャンと響き、荒木さんの声を受けとめている五?一〇分のあいだに、〈素顔〉がのぞいてくる。荒木さんはときおり、男性のネクタイを直したり、女性の髪をフワリとさせたり、絶妙な〈スキンシップ〉をする。この瞬間、ドラマチックに被写体の顔が輝く。自分が考えている〈自分〉の輪郭がほどけ、殻がゆるんでいく。
問題は、荒木さんという〈ハレ〉の力に拠らずに、自分で、日ごろの自分の顔をいかに輝かせることができるかだ。通勤電車から降りたつ男女の顔は仮面をかぶり、そういうわたしの顔も、相手からは無表情に映っているのだろう。
『佐賀ノ顔』撮影の帰り、夕刻の福岡空港で搭乗を待っていると、となりのロビーが騒がしい。飛行機の出発が遅れるらしい。やがて航空会社からアナウンスがある。一万円で、早い便を譲ってくれる客がいないかを尋ねている。当該便よりさらに一時間ほど遅い便があり、一時間でも早く帰着したい客の要求にこたえるために、航空会社は一万円を支払うというわけだ。スーパーマーケットで買い物をするときの数円のちがいは大きいが、一万円を差しだすと告げる空港では、なぜか大勢がひっそりとしている。ひとびとは〈飛行機に乗る〉顔を演じているのだろう。そして、早い便を譲る客もかならずいるにちがいない。「顔を撮りにきて、さいごは横っツラを万サツでひっぱたたく場面になっちゃったなぁ」と、荒木さんと顔を見あわせた。 グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
「私が出会った沖縄の人たち」09年2月 撮影:大木晴子
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』NO105(2007年12月発行)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
09-03-12(おおき せいこ)
日本人の顔
写真家の荒木経惟さんが「日本人ノ顔プロジェクト」にとり組んでいる。日本全国のひとびとのポートレートを、各県ごとに荒木さんがひとりで撮り、さらに各県ごとの分厚い写真集にまとめていこうという計画だ。被写体は、ひとりもいれば、カップルや家族、あるいは幼い兄妹だけのケースもある。すでに『大阪ノ顔』(2002年)『福岡ノ顔』(03年)『鹿児島ノ顔』(03年)『石川ノ顔』(04年)『青森ノ顔』(06年、いずれも「日本人の顔プロジェクト」刊)と出版され、現在『佐賀ノ顔』が進行中だ。ほぼ一年に一冊のペースだから、四七都道府県すべてを撮り終わるのには、あと四〇年はかかる計算で、途方もなく遠大な計画なのだが、すでに撮り終えたショットを見るだけでも、二一世紀初頭の日本人がどんな顔で、いかなる家族観をもち、服装や持ち物などの嗜好がどうだったのかが伝わる、空前絶後の記録となることがわかる。
無料で荒木さんに自分もしくは家族を撮ってもらえるとあって、応募が多数集まり、「日本人ノ顔プロジェクト」のメンバーが、結果的におよそ四〇〇組を選ぶのだが、選ぶといっても容姿やスタイルによるのではなく、撮られるひとの住まいが県全域に、年齢や職業も適度に散ったほうがよいとの配慮からだ。
ブックデザインを手がけることもあって『石川』『青森』『佐賀』の撮影に立ちあったことがある。時期をずらしながら県内の三箇所で撮影することが多く、青森県では、弘前市、青森市、八戸市だった。百貨店の一区画や公民館などを借りて仮設のスタジオをこしらえ、朝から夜まで百数十組、のべ二百人以上をつぎからつぎに撮るのだが、荒木さんの撮影ぶりは実にていねいだ。どんなひとにも、フィルム二本を費やし、声をかけ、相手を笑わせながらシャッターを押していく。
子どもには「ボク、肩車でいいねー。おしっこすんなよ」と語りかけ、母子のゆるんでいく表情をフィルムに定着させていく撮影風景を見ながら、人間の顔はずいぶんと変わるもんだな、と感じる。大型カメラのシャッター音がガシャンガシャンと響き、荒木さんの声を受けとめている五?一〇分のあいだに、〈素顔〉がのぞいてくる。荒木さんはときおり、男性のネクタイを直したり、女性の髪をフワリとさせたり、絶妙な〈スキンシップ〉をする。この瞬間、ドラマチックに被写体の顔が輝く。自分が考えている〈自分〉の輪郭がほどけ、殻がゆるんでいく。
問題は、荒木さんという〈ハレ〉の力に拠らずに、自分で、日ごろの自分の顔をいかに輝かせることができるかだ。通勤電車から降りたつ男女の顔は仮面をかぶり、そういうわたしの顔も、相手からは無表情に映っているのだろう。
『佐賀ノ顔』撮影の帰り、夕刻の福岡空港で搭乗を待っていると、となりのロビーが騒がしい。飛行機の出発が遅れるらしい。やがて航空会社からアナウンスがある。一万円で、早い便を譲ってくれる客がいないかを尋ねている。当該便よりさらに一時間ほど遅い便があり、一時間でも早く帰着したい客の要求にこたえるために、航空会社は一万円を支払うというわけだ。スーパーマーケットで買い物をするときの数円のちがいは大きいが、一万円を差しだすと告げる空港では、なぜか大勢がひっそりとしている。ひとびとは〈飛行機に乗る〉顔を演じているのだろう。そして、早い便を譲る客もかならずいるにちがいない。「顔を撮りにきて、さいごは横っツラを万サツでひっぱたたく場面になっちゃったなぁ」と、荒木さんと顔を見あわせた。 グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
「私が出会った沖縄の人たち」09年2月 撮影:大木晴子
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』NO105(2007年12月発行)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これからも続けて掲載してまいります。
09-03-12(おおき せいこ)
『鈴木一誌・エッセイ』第一回
<昭和>とともにある自分 〜新宿ゴールデン街で〜
しばらく足を運んでいなかった新宿ゴールデン街に、このところたびたび行く。しごとの打ち上げだったり、店内での写真展を見にいったりと、理由はさまざまだが、訪れてみるとクセになって、また行きたくなる。客層も、ずいぶんと若返り、外国人も多い。「どこぞの店のママはフランス語が話せる」といった情報が、ガイドブックやインターネット経由で世界中に発信されているらしい。観光地的な視点で眺められているのかもしれない。そういえば、ゴールデン街入り口の小さな看板には、「撮影は有料です」とある。見物客が、写真を撮るばかりでは商売に差し支えるし、客も酒が旨くない。いっぽう、店の一隅に腰を据えた自分を観察してみると、狭い空間に包まれて気持ちが奇妙に落ち着くのを感じる。同時に、映画のセットに紛れこんだかのような感触もある。どんな映画のセットなのか。強いて言ってみれば、〈昭和〉に逆戻りしたような気分だ。
先日も、写真家の森山大道さんとゴールデン街に行った。デザイナー・戸田ツトムとふたりして責任編集している雑誌『d/SIGNデザイン』で、森山さんにインタビューすることになった。さて、場所をどこにするか。森山さんは、ゴールデン街の「サーヤ」二階がいいのでは、とおっしゃる。森山さん行きつけの店であり、夕方五時から開く、こぢんまりとしたその店の二階は、貸し切り状態で、落ち着いて話が聞ける。けっして明るいとは言えない階上の部屋で、ウーロン茶をかたわらに置いて、森山作品の光と影について聞くのは、ぜいたくな時間だった。
二時間半ほどかかってインタビューが終わり、じゃあ、あらためて呑みに行こうか、となって、同じゴールデン街の「汀」に直行する。ここは、シンガーの渚よう子さんがやっている店で、歌謡曲や映画ファンの常連も多い。天井には、今では入手困難な神代辰巳監督作品のポスターなどが張りめぐらされてある。話は、二〇〇七年八月一日に亡くなった阿久悠さんのことになる。阿久作品のどの曲が好きかを、森山さん、渚さんとしゃべっていると、となりの客が、「人間はひとりの方がいい」(一九七六年、森田公一とトップギャラン)がすばらしいと割って入り、同じ森田公一作曲の「乳母車」もよかったね、と会話が転がっていく。帰り際に、渚さんが自身の新作アルバムをプレゼントしてくれる。
そのアルバム「ノヴェラ・ダモーレ」に、阿久悠がふたつの作詞を寄せているのに気づいたのは、数日後のことだ。チラシには、「阿久悠書き下ろし作品」とあり、アルバム自体が二〇〇七年八月発売であることを考えると、阿久さんの遺作的作品と言えそうだ。作品のひとつが、「どうせ天国へ行ったって」(渚よう子歌、大山渉作曲、松本俊行編曲)である。「どうせ天国には誰もいないのだから、そんなところへは行きたくない。友だちも恋人もみんな地の底でわたしを待っている」、そんな内容の歌詞だ。死者は成仏なんかしていない、地底でうごめいているのだ、と。そこに、〈昭和〉は終わっていない、との作詞家のメッセージを感じる。
ジャンルとしてはドキュメンタリーやノンフィクションに分類されるのだが、色眼鏡で見られがちな本に、〈戦記物〉がある。第二次世界大戦に関する〈戦記物〉に、すぐれた書き手がいる。渡辺洋二だ。著書名をランダムにあげてみるならば、『本土防空戦』『局地戦闘機・雷電』『死闘の本土上空』『創発戦闘機・屠龍』『ジェット戦闘機Me262』『首都防衛302空』といったぐあいで、やはり手を伸ばしにくい雰囲気がある。
最新刊『特攻の海と空 個人としての航空戦史』(文春文庫、〇七年)では、日米の資料探索と生存者へのインタビューに基づいて、〈特攻〉に向きあい死んでいった人間の一挙手一投足を記述する。そのあとがきには、特攻出撃の命令を下した「高級将校、参謀が、一億総懺悔(そうざんげ)の合唱に隠れ、自己正当化の言葉をならべて戦後を生き延びた例は少なからず存在する。彼らが果たさねばならない責任から完全に逃れ、市民にまじって暮らす異常な事態が見過ごされてきた」と書く。市民とは、特攻推進者も含むのか、と問うのだ。市民という全体はありうるのだろうか。
つづけて渡辺は、「私は一九八五年以来、ときには特攻推進者の実名を掲げ、自著にこのことを記述し続けてきた。望んだのは、彼らからの抗議である。それを受けて、公開の討論会を催し、連中の非道を摘出するのが願いだった」と記す。しかし、歴然たる反論はひとつも現われなかった。「二十余年がすぎ、糾弾(きゆうだん)の対象者はあらかた冥土(めいど)へと去ってしまった。そうなる前にもう一歩踏みこんで、土俵の上に引きずり出すべきだったのか」とも悔やむ。〈特攻〉なる概念を否定して終わるのではなく、〈特攻〉の内部に入りこみ、肉を外へと食い破ろうとする文章とでも言えばよいか。
渡辺は別著で、「万事が終わったあかつきに、決死戦法を命じ操縦者を殺した責任をとるのは当然だろう」(『大空の攻防戦』朝日ソノラマ、1992年)と言う。しかし、特攻におもむく若者に、お前たちのあとに自分たちも必ずつづく、と檄を飛ばしながら、戦後に命をみずから絶った指導者は皆無に近かった。それゆえ特攻隊員が、「日本があのように負け、今日の状況に到ったのを知ったなら、「命を返せ」と思っても当然だ」と断じる。
「操縦者を殺した責任」といった書きぶりからも、渡辺が、飛行機好き・パイロットびいきなのがうかがえ、批判は、用兵者ばかりではなく、技術者にも向かう。実用化されなかった特攻専用のジェット機に「梅花(ばいか)」がある。「梅花」実現へのO博士の積極的な姿勢を、「技術者と人間性とのある種の乖離(かいり)」とし、さらにO博士を追悼する戦後の文章に、「梅花」が「実現に到らなかったことは真に惜しまれる」と書く弟子筋の技術中佐に、渡辺の指弾はおよぶ。「敗戦からわずか七年五ヵ月のときに、このような文章を書ける元航空本部/空技廠部員がいたことを、天上の特攻散華者たちは何と思って見おろしていたのだろうか」(『日本の軍用機 海軍編』朝日ソノラマ、1997年)。だが、軍首脳部、部隊幹部、参謀たちは「「恩給」付きで戦後を生きのびた」(同前)。
特攻隊員は、天上で安らかに眠っているのではなく、いまだ地底でわたしたちを待っている。渡辺の著書から伝わるのは、戦争はいまだ終わることができていない、との感触だ。「用兵者はもちろんのこと、技術者も時に良心を失って、若人の殺戮(さつりく)計画に加担した事実は消えない」(同前)。死者に対しての責任がまっとうできていない。そして、おそらく死者に対しての責任をまっとうすることなど誰にもできない、とも読める。〈戦争〉は終わってない、と思いつづけることが、せめてもの死者への責任ではないのか。前の戦争が終わっていないのだから、つぎの戦争など論外なのだし、勝ち負けや靖国神社が、戦争を終わらせてくれるのでもない。
阿久悠の作詞になる「昭和最後の秋のこと」(桂銀淑歌、浜圭介作曲、1999年)からは、「飢えて痩せて目だけを光らせていた子どものすがたを忘れない」との思いが伝わってくる。〈昭和〉とは、戦争が終わってないことを伝達する名前なのだ。〈昭和〉を〈二〇世紀〉などと、それぞれが呼びかえればよい。〈昭和〉とともにある自分を、ゴールデン街で見いだしてみるの悪くない。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
特攻基地跡 鹿児島県・笠之原 79年4月 撮影:大木茂
靖国神社 80年10月 撮影:大木茂
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』NO104(2007年10月発行)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これから続けて掲載してまいります。
09-02-11(おおき せいこ)
<昭和>とともにある自分 〜新宿ゴールデン街で〜
しばらく足を運んでいなかった新宿ゴールデン街に、このところたびたび行く。しごとの打ち上げだったり、店内での写真展を見にいったりと、理由はさまざまだが、訪れてみるとクセになって、また行きたくなる。客層も、ずいぶんと若返り、外国人も多い。「どこぞの店のママはフランス語が話せる」といった情報が、ガイドブックやインターネット経由で世界中に発信されているらしい。観光地的な視点で眺められているのかもしれない。そういえば、ゴールデン街入り口の小さな看板には、「撮影は有料です」とある。見物客が、写真を撮るばかりでは商売に差し支えるし、客も酒が旨くない。いっぽう、店の一隅に腰を据えた自分を観察してみると、狭い空間に包まれて気持ちが奇妙に落ち着くのを感じる。同時に、映画のセットに紛れこんだかのような感触もある。どんな映画のセットなのか。強いて言ってみれば、〈昭和〉に逆戻りしたような気分だ。
先日も、写真家の森山大道さんとゴールデン街に行った。デザイナー・戸田ツトムとふたりして責任編集している雑誌『d/SIGNデザイン』で、森山さんにインタビューすることになった。さて、場所をどこにするか。森山さんは、ゴールデン街の「サーヤ」二階がいいのでは、とおっしゃる。森山さん行きつけの店であり、夕方五時から開く、こぢんまりとしたその店の二階は、貸し切り状態で、落ち着いて話が聞ける。けっして明るいとは言えない階上の部屋で、ウーロン茶をかたわらに置いて、森山作品の光と影について聞くのは、ぜいたくな時間だった。
二時間半ほどかかってインタビューが終わり、じゃあ、あらためて呑みに行こうか、となって、同じゴールデン街の「汀」に直行する。ここは、シンガーの渚よう子さんがやっている店で、歌謡曲や映画ファンの常連も多い。天井には、今では入手困難な神代辰巳監督作品のポスターなどが張りめぐらされてある。話は、二〇〇七年八月一日に亡くなった阿久悠さんのことになる。阿久作品のどの曲が好きかを、森山さん、渚さんとしゃべっていると、となりの客が、「人間はひとりの方がいい」(一九七六年、森田公一とトップギャラン)がすばらしいと割って入り、同じ森田公一作曲の「乳母車」もよかったね、と会話が転がっていく。帰り際に、渚さんが自身の新作アルバムをプレゼントしてくれる。
そのアルバム「ノヴェラ・ダモーレ」に、阿久悠がふたつの作詞を寄せているのに気づいたのは、数日後のことだ。チラシには、「阿久悠書き下ろし作品」とあり、アルバム自体が二〇〇七年八月発売であることを考えると、阿久さんの遺作的作品と言えそうだ。作品のひとつが、「どうせ天国へ行ったって」(渚よう子歌、大山渉作曲、松本俊行編曲)である。「どうせ天国には誰もいないのだから、そんなところへは行きたくない。友だちも恋人もみんな地の底でわたしを待っている」、そんな内容の歌詞だ。死者は成仏なんかしていない、地底でうごめいているのだ、と。そこに、〈昭和〉は終わっていない、との作詞家のメッセージを感じる。
ジャンルとしてはドキュメンタリーやノンフィクションに分類されるのだが、色眼鏡で見られがちな本に、〈戦記物〉がある。第二次世界大戦に関する〈戦記物〉に、すぐれた書き手がいる。渡辺洋二だ。著書名をランダムにあげてみるならば、『本土防空戦』『局地戦闘機・雷電』『死闘の本土上空』『創発戦闘機・屠龍』『ジェット戦闘機Me262』『首都防衛302空』といったぐあいで、やはり手を伸ばしにくい雰囲気がある。
最新刊『特攻の海と空 個人としての航空戦史』(文春文庫、〇七年)では、日米の資料探索と生存者へのインタビューに基づいて、〈特攻〉に向きあい死んでいった人間の一挙手一投足を記述する。そのあとがきには、特攻出撃の命令を下した「高級将校、参謀が、一億総懺悔(そうざんげ)の合唱に隠れ、自己正当化の言葉をならべて戦後を生き延びた例は少なからず存在する。彼らが果たさねばならない責任から完全に逃れ、市民にまじって暮らす異常な事態が見過ごされてきた」と書く。市民とは、特攻推進者も含むのか、と問うのだ。市民という全体はありうるのだろうか。
つづけて渡辺は、「私は一九八五年以来、ときには特攻推進者の実名を掲げ、自著にこのことを記述し続けてきた。望んだのは、彼らからの抗議である。それを受けて、公開の討論会を催し、連中の非道を摘出するのが願いだった」と記す。しかし、歴然たる反論はひとつも現われなかった。「二十余年がすぎ、糾弾(きゆうだん)の対象者はあらかた冥土(めいど)へと去ってしまった。そうなる前にもう一歩踏みこんで、土俵の上に引きずり出すべきだったのか」とも悔やむ。〈特攻〉なる概念を否定して終わるのではなく、〈特攻〉の内部に入りこみ、肉を外へと食い破ろうとする文章とでも言えばよいか。
渡辺は別著で、「万事が終わったあかつきに、決死戦法を命じ操縦者を殺した責任をとるのは当然だろう」(『大空の攻防戦』朝日ソノラマ、1992年)と言う。しかし、特攻におもむく若者に、お前たちのあとに自分たちも必ずつづく、と檄を飛ばしながら、戦後に命をみずから絶った指導者は皆無に近かった。それゆえ特攻隊員が、「日本があのように負け、今日の状況に到ったのを知ったなら、「命を返せ」と思っても当然だ」と断じる。
「操縦者を殺した責任」といった書きぶりからも、渡辺が、飛行機好き・パイロットびいきなのがうかがえ、批判は、用兵者ばかりではなく、技術者にも向かう。実用化されなかった特攻専用のジェット機に「梅花(ばいか)」がある。「梅花」実現へのO博士の積極的な姿勢を、「技術者と人間性とのある種の乖離(かいり)」とし、さらにO博士を追悼する戦後の文章に、「梅花」が「実現に到らなかったことは真に惜しまれる」と書く弟子筋の技術中佐に、渡辺の指弾はおよぶ。「敗戦からわずか七年五ヵ月のときに、このような文章を書ける元航空本部/空技廠部員がいたことを、天上の特攻散華者たちは何と思って見おろしていたのだろうか」(『日本の軍用機 海軍編』朝日ソノラマ、1997年)。だが、軍首脳部、部隊幹部、参謀たちは「「恩給」付きで戦後を生きのびた」(同前)。
特攻隊員は、天上で安らかに眠っているのではなく、いまだ地底でわたしたちを待っている。渡辺の著書から伝わるのは、戦争はいまだ終わることができていない、との感触だ。「用兵者はもちろんのこと、技術者も時に良心を失って、若人の殺戮(さつりく)計画に加担した事実は消えない」(同前)。死者に対しての責任がまっとうできていない。そして、おそらく死者に対しての責任をまっとうすることなど誰にもできない、とも読める。〈戦争〉は終わってない、と思いつづけることが、せめてもの死者への責任ではないのか。前の戦争が終わっていないのだから、つぎの戦争など論外なのだし、勝ち負けや靖国神社が、戦争を終わらせてくれるのでもない。
阿久悠の作詞になる「昭和最後の秋のこと」(桂銀淑歌、浜圭介作曲、1999年)からは、「飢えて痩せて目だけを光らせていた子どものすがたを忘れない」との思いが伝わってくる。〈昭和〉とは、戦争が終わってないことを伝達する名前なのだ。〈昭和〉を〈二〇世紀〉などと、それぞれが呼びかえればよい。〈昭和〉とともにある自分を、ゴールデン街で見いだしてみるの悪くない。
グラフィックデザイナー・ 鈴木一誌(すずき ひとし)
特攻基地跡 鹿児島県・笠之原 79年4月 撮影:大木茂
靖国神社 80年10月 撮影:大木茂
「市民の意見30の会」 ニュース『市民の意見』NO104(2007年10月発行)に
掲載されたエッセイを筆者のご承諾をいただき再録させていただきました。
写真は、こちらで添付しました。これから続けて掲載してまいります。
09-02-11(おおき せいこ)
(たくさんの人が集まった1969年の新宿西口地下広場)
亡くなられた社会派の作家、松下竜一さんが発行されていたミニコミ誌「草の根通信」は長い間 多くの運動を続ける皆さんとの交流の場になっていました。
松下竜一さんが倒れられてから支援者の皆さんの手で発行続けてきたこの「草の根通信」は 残念ですが通算380号になる7月号で休刊になるようです。
私は 「草の根通信(第373号・12月号)に下記の西口の事を書かせていただきました。
「1969年新宿西口地下広場そして現在の地下広場」大木晴子
1969年7月14日、私は昼食を済ませ勤めていた出版社の方へ歩き出しました。会社が見える路地に入ると社から出てくる三人の背広姿の男性に囲まれ「山本晴子さんですね。」そう尋ねられました。そして、一人が胸ポケットから白い紙をテレビドラマのワンシーンのように広げ「逮捕令状です。」と見せられました。そうです新宿西口地下広場が地下通路にかわり、道交法違反で逮捕令状が出てしまったのです。
悪いことをした覚えが無いので凄く落ち着いていた私は、会社には戻らず持っていた財布とハンカチだけで同行しました。会社の入り口で心配そうに見ている編集者に軽く会釈をして新宿署へ向かいました。
パトカーに乗ると頭の中で「黙秘します・黙秘します」繰り返し練習していました。心配していた会社に残した荷物は、社の皆さんが直ぐ近くにあった運動関係の書物を扱っていた「ウニタ書店」のおじさんの所に預けてくれました。仲間の住所録が無事で良かったと、いま考えてもホットしています。
私たち東京フォークゲリラは、この年の2月から新宿西口地下広場で毎週土曜日の夕方からフォークソングを歌い反戦意思表示をしていました。地下広場を行き交う人たちと一緒に歌い、戦争のことアメリカがやっていること日本の政府がベトナム戦争に加担していることなどみんなで語り始めたのです。
フォークゲリラの仲間達を囲み人びとの輪は、20〜30人ぐらいの小さな集まりでした。回を重ねる度に、人びとの輪は大きくなり100人ぐらいになった頃、警察官に数名が排除された事が大きく報道されました。
その翌週の5月8日土曜日、私は赤いビニールケースに入ったギターを抱え新宿駅の西口地下広場に通じる階段を降りると、そこはいつもと違う地下広場になっていました。
前の週に広場を通路に変えてしまった国家権力は暴力で若者達を追い散らしその事を、テレビや新聞の報道で見た人たちが「何があるんだ」「警察のやった事はおかしい」と様々な思いで広場に集まっていました。
私は、たくさん人がくるだろうと予測はしていましたが、あまりの多さに体が震えました。
ギターを抱えた数人の仲間と改札口を出ると、人々の動きは私達と同じ方向に流れ始めました。交番に近い角柱を背に私達は、ギターを弾き反戦フォークソングを歌い始めると、みんなは池に石を落とした時に出来る波紋のように座り始めました。広場は人でうまり歌声は、だんだん大きくなっていきました。輪のまわりでは、話し合いをする人のかたまりが幾つもでき、通路は広場にもどり、人々は生き生きと自分の言葉で話し始めました。
「今のうちだけだ、所帯でも持ってごらん。子供でもできてみろ、デモなんかできないないぞ」と男は言った。「おじさん、それは違うよ。子供ができればもっと平和な社会を考えるし、頑張るよ」と若者が応える。地下広場のあちらこちらで人々の語らいがうまれていきました。反戦フォークを歌う若者を見ながら、はじめは遠くにいた父親ぐらいの人が次の週には100円の歌集を買い読んでいる。そして翌週には輪の中で一緒に歌っていた。お互いの生き方を認めながら、なお話し合おうとする力が漲り、新しい行動を始めようとする仲間に感心を持ち、一緒に参加しなくてもそこには、温かい眼差しがあった。私は地下広場で戦争反対の声が広がっていくのを肌で感じることができました。
しかし、数ヶ月後「立ち止まらないでください」のアナンスの声と共に広場から歌声は消えてしまいました。
あれから三十四年、私は昨年ベトナムを訪ねる旅で知り合った友と新宿西口地下広場で反戦の意思表示をする事を決め、毎週土曜日に立ち始めました。2月から休まず参加した私は、たくさんの人たちと向き合う時間を過ごしてきました。
自分の考えや生き方を真剣に見つめて来た時間でもあります。
参加した一人ひとりの醸し出す雰囲気が地下広場に広がり,心地の良い空間を作りだし、一緒に頑張れる力を満たして家路につく人々の顔はいつも輝いています。
地下広場の丸い大きな柱を背に,思い思いの言葉が熱いまなざしと一緒に,通り過ぎる人びとに語りかけています。
Y子さんが何日もかけてフエルト地で文字を切り抜ぬいて作った「あなたが生れてくる この国はふたたび せんそうができる 国になってしまった。」「殺すな」の文字。その一字一字にY子さんの思いが感じられ、胸が熱くなります。
ご住職をしていらっしゃるHさんは、「自衛隊はイラクに行くな」行くなの言葉に赤いラインが。隣に立つ女性は「ブッシュにしっぽをふるために自衛官を戦場に送るのか」と。
PEACE NOT WAR・加害者にも被害者にもなりたくない!!・武力で平和は創れない・海外派兵反対!・他人事と思うな!遠国でも同じ人間!・命は戻らない廃棄しょう!!自衛隊・日米安保条約・行動しょう!非暴力抵抗・戦争はイヤだ!イラク派兵絶対反対・戦争好きは許さない!一人だけ何時も少し離れた柱に立つ年配の女性が持つプラカードには「在日朝鮮人に対する暴力暴言は許しません。拉致被害だけ言うのでなく、それがおこった日韓の歴史を深く学んでいく事が大切。立場を置きかえて考える人間関係が平和への道」と書かれています
私のプラカードは5月に出した意見広告文字、「殺すな」「武力で平和は創れない」そしてもう一面は、我が家の柴犬ジローの写真と殺すなマークに「戦争はイヤだ!ワン」と書いて子ども用に拵えました。
遠くから子どもが歩いてくると「戦争イヤだ!ワン」の方を見せます。
しかし、子どもたちの目がプラカードに止まる事はあまりありません。
子どもが興味をしめしたとしても一緒にいる親はなんの反応もなく通り過ぎていきます。なんと、寂しい光景でしょう。
でも、私はあきらめない。自分のできる事を大らかに意思表示していきたい。
大人も子どもたちも自分の言葉で今の日本に言いたい事は、たくさんあるでしょう。いつもそう呼びかけます。
8月18日の朝日新聞に地下広場の記事が出ると携帯にメイルが入りました。短い文章の中に思いがいっぱい詰まったその言葉は、「大木さんがしてくださっている行為に感謝しています。ありがとう。」でした。
二人の男の子を育てている彼女は、今まで反戦運動など無縁の人。でも今の社会情勢の中で不安でたまらないのではないでしょうか。
戦争がいつ起きてもおかしくないような歩みをはじめてしまった日本に不安を感じ始めたのだと思います。
私は、このメイルを読んだ時、地下広場に立った事「良かった」と思いました。
柴犬ジローと街を歩くと、いろいろな方と以前に増してお話しをする機会に恵まれています。
「オレも、学生運動していた。」と輝いた顔で話す花屋さん。
何時も仲良くしている近所の友は「同じ気持ち持っているのよ。戦争反対だし、でも何をしていいかわからないまま来ちゃって・・」と語り始めました。
私は嬉しい「無理をしなくていいよ。今の自分に出来る事をしてね。優しい眼差しで頑張っている人を見ていてくれるだけでもいいのよ」と。
1969年、新宿西口地下広場が終わった後、私は教育の場に立ちたいと考えて保育学校へ。学業を終え幼稚園に就職が決まると十五歳違いの一番上の兄からお金では買う事の出来ない素敵なプレゼントをもらいました。
「晴子 驕るなよ。教え育むという事は、親指と人さし指をピッタリあわせた時に出来るほんのわずかなすき間ぐらいなものだ。現象面だけでやったつもりになるなよ。結果は、10年、15年先に見えるものだ。謙虚な気持ちを持って頑張れ」と。その兄が記事を見て便りをくれました。
「不景気が続くとだれもがいらいらし、それに便乗して妄動する人が出てきます。何時の時代でも同じです。そのような中で良心の灯をともし続ける人たちがいることを嬉しく思い、その内の一人が晴子であればなおさらです。」と。
みんな、みんな思っている。戦争はイヤ!いまの日本は、どうなってるの!
私は、自分を見つめる事が出来るこの反戦意思表示で一人一人が強くなり、同じ思いの人がいることを実感しお互いに頑張っていけると感じ合えることが素晴らしいと思っています。
日本のあちらこちらに同じ思いの人たちが立ち始めたら、私たちはもっと頑張っていけると思います。
自分が出来る事を探しましょう。それが、頑張っている人たちに優しい眼差しを向けることでも良いのです。大らかに優しく歩みましょう。
私は、留置場の中で出会った人たちの事もよく覚えています。
「あんた、堅気の娘さんだね。」と話しかけてくれた売春で捕まっていたおばさんは、病気がうつるといけないとお風呂の入り方を教えてくれました。言われた通り、足だけを洗い湯船には入りませんでした。
また、同室になったのは、30歳ぐらいのきれいなお姉さんでした。壁を背に向き合って膝を立てて座っていると、高い天窓から「友よ」の歌が聞こえてきました。私は、仁王立ちになって窓を見上げました。
不思議に思っているお姉さんに西口の事や仲間が私を元気づける為に歌ってくれている事を話すと、「あんた、幸せな人だね」と、彼女を見ると涙を流していました。(おおきせいこ)
★文字数の関係で掲載されなかった部分を少し書き足しました。
http://seiko-jiro.net/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=150
「私の三泊四日・・・サクランボの思い出」
http://seiko-jiro.net/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=504
菊屋橋から出た日 1970年出版「フォークゲリラとは何者か」から。