生きづらい日本!ひっくり返そう!! 大木晴子
台風騒ぎで大きなデモが中止になりました。
このお知らせが届いたときに「朝になったら青空で気持ちのよい天気に!」と
思いながら・・・・やっぱり!もったいなかったなぁ?。
何時ものように夕方から新宿へ。
今日はたくさんの人が地上から立たれました。
Tさんは、 沖縄・高江 「ヘリパッドなんていらないよ。」
支援ポスターとTシャツを着て!
百合の花さんは、丸木美術館オリジナルグッズ
スケッチブック を持って百合の花さんが立ちました。
Oさんの辺野古支援も!そして毎月第一月曜日に防衛省前 でお会いする
「日刊ベリタ」に記事を書いている 加藤宣子さん が声をかけてくださいました。
今日がお誕生日で可愛い花束を持っていました。
Aさんのところには、声をかけてきた男性と話しが続いていました。
東京に遊びに来ているのかなぁ?。
外国で暮らしていると言う可愛い娘さんたちが一緒に写真を一枚!!
見ていますか♪
二回目のスタンディングです。
「憲法カフェプロジェクトチーム」 の若者Sさんです。
9月27日のお知らせを持って立ちました。
これからも続けたいという気持ちが伝わってきました。
楽しく!繋がっていきましょうね。
雲さんの言葉もSさんの思いも一緒!
さぁ! 25日は横須賀!
AさんもTさんもみんな同じ!!
平和を願う気持ちが広場に響いています。
声を出して表現していく人も増えています。
もう!黙っていたらたいへん!
自分の気持ちを見つめましょう!
そして、平和を育む人を選ぶことが出来るように
いろいろ学んで行きましょう。
地上で声をかけて下さった娘さんが・・・・・
彼女はお母さんと「日めくりタイムトラベル」を観て
「感激しました」と伝えてくださいました。
ムキンポさん のページの土曜日の写真に娘さんも写っています!
その感激して下さった 映画「地下広場」 の上映があります。
劇場での上映は、これからは難しいと思います。
遅い時間ですが、みてください。
(08-09-22・おおきせいこ)
(たくさんの人が集まった1969年の新宿西口地下広場)
亡くなられた社会派の作家、松下竜一さんが発行されていたミニコミ誌「草の根通信」は長い間 多くの運動を続ける皆さんとの交流の場になっていました。
松下竜一さんが倒れられてから支援者の皆さんの手で発行続けてきたこの「草の根通信」は 残念ですが通算380号になる7月号で休刊になるようです。
私は 「草の根通信(第373号・12月号)に下記の西口の事を書かせていただきました。
「1969年新宿西口地下広場そして現在の地下広場」大木晴子
1969年7月14日、私は昼食を済ませ勤めていた出版社の方へ歩き出しました。会社が見える路地に入ると社から出てくる三人の背広姿の男性に囲まれ「山本晴子さんですね。」そう尋ねられました。そして、一人が胸ポケットから白い紙をテレビドラマのワンシーンのように広げ「逮捕令状です。」と見せられました。そうです新宿西口地下広場が地下通路にかわり、道交法違反で逮捕令状が出てしまったのです。
悪いことをした覚えが無いので凄く落ち着いていた私は、会社には戻らず持っていた財布とハンカチだけで同行しました。会社の入り口で心配そうに見ている編集者に軽く会釈をして新宿署へ向かいました。
パトカーに乗ると頭の中で「黙秘します・黙秘します」繰り返し練習していました。心配していた会社に残した荷物は、社の皆さんが直ぐ近くにあった運動関係の書物を扱っていた「ウニタ書店」のおじさんの所に預けてくれました。仲間の住所録が無事で良かったと、いま考えてもホットしています。
私たち東京フォークゲリラは、この年の2月から新宿西口地下広場で毎週土曜日の夕方からフォークソングを歌い反戦意思表示をしていました。地下広場を行き交う人たちと一緒に歌い、戦争のことアメリカがやっていること日本の政府がベトナム戦争に加担していることなどみんなで語り始めたのです。
フォークゲリラの仲間達を囲み人びとの輪は、20〜30人ぐらいの小さな集まりでした。回を重ねる度に、人びとの輪は大きくなり100人ぐらいになった頃、警察官に数名が排除された事が大きく報道されました。
その翌週の5月8日土曜日、私は赤いビニールケースに入ったギターを抱え新宿駅の西口地下広場に通じる階段を降りると、そこはいつもと違う地下広場になっていました。
前の週に広場を通路に変えてしまった国家権力は暴力で若者達を追い散らしその事を、テレビや新聞の報道で見た人たちが「何があるんだ」「警察のやった事はおかしい」と様々な思いで広場に集まっていました。
私は、たくさん人がくるだろうと予測はしていましたが、あまりの多さに体が震えました。
ギターを抱えた数人の仲間と改札口を出ると、人々の動きは私達と同じ方向に流れ始めました。交番に近い角柱を背に私達は、ギターを弾き反戦フォークソングを歌い始めると、みんなは池に石を落とした時に出来る波紋のように座り始めました。広場は人でうまり歌声は、だんだん大きくなっていきました。輪のまわりでは、話し合いをする人のかたまりが幾つもでき、通路は広場にもどり、人々は生き生きと自分の言葉で話し始めました。
「今のうちだけだ、所帯でも持ってごらん。子供でもできてみろ、デモなんかできないないぞ」と男は言った。「おじさん、それは違うよ。子供ができればもっと平和な社会を考えるし、頑張るよ」と若者が応える。地下広場のあちらこちらで人々の語らいがうまれていきました。反戦フォークを歌う若者を見ながら、はじめは遠くにいた父親ぐらいの人が次の週には100円の歌集を買い読んでいる。そして翌週には輪の中で一緒に歌っていた。お互いの生き方を認めながら、なお話し合おうとする力が漲り、新しい行動を始めようとする仲間に感心を持ち、一緒に参加しなくてもそこには、温かい眼差しがあった。私は地下広場で戦争反対の声が広がっていくのを肌で感じることができました。
しかし、数ヶ月後「立ち止まらないでください」のアナンスの声と共に広場から歌声は消えてしまいました。
あれから三十四年、私は昨年ベトナムを訪ねる旅で知り合った友と新宿西口地下広場で反戦の意思表示をする事を決め、毎週土曜日に立ち始めました。2月から休まず参加した私は、たくさんの人たちと向き合う時間を過ごしてきました。
自分の考えや生き方を真剣に見つめて来た時間でもあります。
参加した一人ひとりの醸し出す雰囲気が地下広場に広がり,心地の良い空間を作りだし、一緒に頑張れる力を満たして家路につく人々の顔はいつも輝いています。
地下広場の丸い大きな柱を背に,思い思いの言葉が熱いまなざしと一緒に,通り過ぎる人びとに語りかけています。
Y子さんが何日もかけてフエルト地で文字を切り抜ぬいて作った「あなたが生れてくる この国はふたたび せんそうができる 国になってしまった。」「殺すな」の文字。その一字一字にY子さんの思いが感じられ、胸が熱くなります。
ご住職をしていらっしゃるHさんは、「自衛隊はイラクに行くな」行くなの言葉に赤いラインが。隣に立つ女性は「ブッシュにしっぽをふるために自衛官を戦場に送るのか」と。
PEACE NOT WAR・加害者にも被害者にもなりたくない!!・武力で平和は創れない・海外派兵反対!・他人事と思うな!遠国でも同じ人間!・命は戻らない廃棄しょう!!自衛隊・日米安保条約・行動しょう!非暴力抵抗・戦争はイヤだ!イラク派兵絶対反対・戦争好きは許さない!一人だけ何時も少し離れた柱に立つ年配の女性が持つプラカードには「在日朝鮮人に対する暴力暴言は許しません。拉致被害だけ言うのでなく、それがおこった日韓の歴史を深く学んでいく事が大切。立場を置きかえて考える人間関係が平和への道」と書かれています
私のプラカードは5月に出した意見広告文字、「殺すな」「武力で平和は創れない」そしてもう一面は、我が家の柴犬ジローの写真と殺すなマークに「戦争はイヤだ!ワン」と書いて子ども用に拵えました。
遠くから子どもが歩いてくると「戦争イヤだ!ワン」の方を見せます。
しかし、子どもたちの目がプラカードに止まる事はあまりありません。
子どもが興味をしめしたとしても一緒にいる親はなんの反応もなく通り過ぎていきます。なんと、寂しい光景でしょう。
でも、私はあきらめない。自分のできる事を大らかに意思表示していきたい。
大人も子どもたちも自分の言葉で今の日本に言いたい事は、たくさんあるでしょう。いつもそう呼びかけます。
8月18日の朝日新聞に地下広場の記事が出ると携帯にメイルが入りました。短い文章の中に思いがいっぱい詰まったその言葉は、「大木さんがしてくださっている行為に感謝しています。ありがとう。」でした。
二人の男の子を育てている彼女は、今まで反戦運動など無縁の人。でも今の社会情勢の中で不安でたまらないのではないでしょうか。
戦争がいつ起きてもおかしくないような歩みをはじめてしまった日本に不安を感じ始めたのだと思います。
私は、このメイルを読んだ時、地下広場に立った事「良かった」と思いました。
柴犬ジローと街を歩くと、いろいろな方と以前に増してお話しをする機会に恵まれています。
「オレも、学生運動していた。」と輝いた顔で話す花屋さん。
何時も仲良くしている近所の友は「同じ気持ち持っているのよ。戦争反対だし、でも何をしていいかわからないまま来ちゃって・・」と語り始めました。
私は嬉しい「無理をしなくていいよ。今の自分に出来る事をしてね。優しい眼差しで頑張っている人を見ていてくれるだけでもいいのよ」と。
1969年、新宿西口地下広場が終わった後、私は教育の場に立ちたいと考えて保育学校へ。学業を終え幼稚園に就職が決まると十五歳違いの一番上の兄からお金では買う事の出来ない素敵なプレゼントをもらいました。
「晴子 驕るなよ。教え育むという事は、親指と人さし指をピッタリあわせた時に出来るほんのわずかなすき間ぐらいなものだ。現象面だけでやったつもりになるなよ。結果は、10年、15年先に見えるものだ。謙虚な気持ちを持って頑張れ」と。その兄が記事を見て便りをくれました。
「不景気が続くとだれもがいらいらし、それに便乗して妄動する人が出てきます。何時の時代でも同じです。そのような中で良心の灯をともし続ける人たちがいることを嬉しく思い、その内の一人が晴子であればなおさらです。」と。
みんな、みんな思っている。戦争はイヤ!いまの日本は、どうなってるの!
私は、自分を見つめる事が出来るこの反戦意思表示で一人一人が強くなり、同じ思いの人がいることを実感しお互いに頑張っていけると感じ合えることが素晴らしいと思っています。
日本のあちらこちらに同じ思いの人たちが立ち始めたら、私たちはもっと頑張っていけると思います。
自分が出来る事を探しましょう。それが、頑張っている人たちに優しい眼差しを向けることでも良いのです。大らかに優しく歩みましょう。
私は、留置場の中で出会った人たちの事もよく覚えています。
「あんた、堅気の娘さんだね。」と話しかけてくれた売春で捕まっていたおばさんは、病気がうつるといけないとお風呂の入り方を教えてくれました。言われた通り、足だけを洗い湯船には入りませんでした。
また、同室になったのは、30歳ぐらいのきれいなお姉さんでした。壁を背に向き合って膝を立てて座っていると、高い天窓から「友よ」の歌が聞こえてきました。私は、仁王立ちになって窓を見上げました。
不思議に思っているお姉さんに西口の事や仲間が私を元気づける為に歌ってくれている事を話すと、「あんた、幸せな人だね」と、彼女を見ると涙を流していました。(おおきせいこ)
★文字数の関係で掲載されなかった部分を少し書き足しました。
http://seiko-jiro.net/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=150
「私の三泊四日・・・サクランボの思い出」
http://seiko-jiro.net/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=504
菊屋橋から出た日 1970年出版「フォークゲリラとは何者か」から。
はじめは3人!最後は8人!! 大木晴子
先週「今度の土曜日は・・・」と言う声を聞いていたので
もしかして雲さんと二人かなぁ?なんて思いながら新宿へ。
地上は、「戦争につながる基地はいりません」と呼びかけて
チラシを配るKさんと雲さんと三人の意思表示になりました。
雲さんの新しいプラカードやゆきの ひっくり返る は皆さんよく見ていきました。
地下に降ります。
今日は少ないなぁ?と思ったら 14日の防衛省前行動 のお知らせを
持ってNさんが久しぶりにスタンディングでした。
丸木美術館 〈今日の反核反戦展2008〉 (2008年9月13日[土]―10月25日[土])
に出品されているY岡さんも立ちました。
そして、何時も一緒!! 小松ミつさん !!
側でKシスターが立たれました。
斉藤さんが立ちます。
kiss-meさんは、今日も新しいプラカードです。
大きなプラカードで立つKさんのところには
集会で知り合った方とお話が弾んでいました。
今日の広場も声をかけて下さる方がいました。
娘さんやシンガポールから来たという青年たち、
辺野古を見つめてのプラカードを見て「その通り!」と
言っていく若者たち・・・・。
さぁ!その思いを大切なときに役立ててくださいね!
そう思いながら後ろ姿を見送っていました。
(08-09-15・おおきせいこ)
菊屋橋から出た日 大木晴子(旧姓 山本)
フォークゲリラ・新宿西口 菊屋橋署の階段をおりたとき、「太陽がまぶしい」……ただ、その一言しか言葉に出なかった。太陽がこんなにも、なつかしく、大切なものだと感じたことは、いままでになかった。その太陽に照らされたせいか、汗びっしょり、すぐお風呂屋に飛びこみ、好きなユカタに着がえたとき、はじめて、自分の気持を取りもどし、おちついて考えることが出来ました。
その姿のまま、すぐ西口広場へ行きました。そこでは、私が逮捕される以前から、行なわれていた、出入国管理法案に反対する人達のハンストが、今もなお、多くの人々によって続行していました。皆んな顔見しりで「いつ出て来たの」、「元気そうでよかったワ」、「もっと長いとおもって心配しちゃった」など、多くのやさしい言葉が、私を包んでくれました。
あの大きな円をえがいた広い広いタイル、太い柱、広い天井、交番、ソフトクリーム屋、皆んな皆んなとてもなつかしく感じた。
すごく長い時間、ここにこなかったようた気がして、なつかしさで目の奥があつくなるのを感じながら、ソフトクリームをかじり、西口広場のすみからすみまで歩いた、何回も何回も。ゲタの音だげが、私の気持をわかってくれたのか、はしゃいではしゃいでしかたがなかった。
私はこの西口広場で多くの人々と一緒にフォーク・ソソグを歌ったということで、3日前(’69年7月14日)に逮捕されたのです。その長い4日間が過ぎて、私は今、見せかけだけの自由にあふれた西口広場に立っているのです。そして、この4日間にいろいろなことを学びました。友達との暖かい触れ合いを、以前にも増して強く感じることができたことでは逮捕されて逮捕されて""よかった""と冗談めいた言葉までいえるほど落着いた私に戻りかけていました。
日曜学校からべ平連へ
フォークゲリラ 新宿西口 昭和23年、生化学の研究をしている父の6人兄弟の末っ子として、私は東京の練馬で生れました。小学校は練馬区立開進第三小学校へ入学、開進第三中学校へ進みました。そこで2年生を迎えた時、家が日野に移ったので日野第二中学校で残りの中学生時代を終えました。そしてどちらかというと古風な考え方を持つ母の勧めもあって、実践女子学院高校に学ぶことになりました。
この高校では、男子部もあったのですが、一切交際禁止でした。他の高校が大学受験のためにますます予備校化している中でお作法とか、行儀とかいったことを何よりも重視するという封建的な校風がありました。しかしお作法とか行儀というものがただ単にお嫁に行くためのものだけではなく、もっと広いものとして考えたいと思い、そのような校風の中である時には反発し、反抗的にさえなったものでした。私が女性であると同時に一人の人間であり社会の一員であるということから、私が成すべきこと、学ぶべきことがあるような気がしていました。私に、このことについて考える場を与えてくれたのは、教会の日曜学校でした。なにげなく訪れた教会で、明るく飛び回っている子供達を見て、規則と因習に縛られた心に何か感ずるものがありました。教会という所は私にはまったく新しい世界で、そこでは学校とは違って、私が人間社会の大きな輪につながっているのだということを絶えず感じました。学校ではお作法を一生懸命学ぶ一方、私は教会と自分との距離を次第に狭めてゆきました。良い意味で封建的な面とキリスト教の教えとを私なりにうまく調和した形で理解しているつもりでした。
私は、高校生活の3年間が終ろうとするころ、毎週通っていた教会の付属幼稚園から、アシスタントとしての話を受げました。この仕事について、いつも私と一緒に教会に通っていた兄はとても賛成してくれましたが、母はあまり良い返事をしてくれませんでした。というのは、この仕事をすることで私の接する社会が狭められるのではたいかと心配してのことでした。でも私の心が通じたのか、1年の期限付きということで許してくれました。この就職が決って、子供達の前に立つということを考えた時、ただ単に子供が好き、子供と一緒に過したいという単純な気持で過して来た私の中に、キリスト教信仰ということが重くのしかかって来ました。そのような気持の中で、何かはっきりとしたげじめをつげておぎたかったので、洗礼を受げました。昭和42年、封建的な女子高校生活から解放されて、教会付属幼稚園の手伝いをし、毎週日曜日には多くの子供達と一緒に過ごす日々が続きまLた。しかし一年間という日々があっという間に過ぎ去ろうとした時、母との約束通り次の身の振り方を考えねぱなりませんでした。結局、幼稚園を去らなければなりませんでしたけれども、教会の日曜学校というものからは離れることはできませんでした。
私の行っていた教会は、大きな団地の真中にあり、通って来る子供の大部分は団地に住む子供達でした。私はその子供達と遊んだり話したりする中で、子供達の求めているものは一体何なのだろう?そして、団地生活という一つの現代的な生活環境を考えた時、そのようなすベてのことをつきつめ、理解した上でなけれぼ、福音など口にできないと考えるようになりました。このように考え始めた私は、古くからいる教会の人達と意見が食い違い、また新たに、キリスト教信仰というものに対しての考え方が、心の中でわき始めて来るのを感じ得ずにはおられませんでした。
ある年の暮に私達の教会の属している日本キリスト教団の方針で、南北ヴェトナムの子供達に医薬品を送る運動を始めました。私はその運動をしてゆく中でヴェトナム戦争のこと、そして、その戦争の中でのアメリカの誤りを指摘した上でなくては、本当の救援活動などあり得ないと考えました。しかしそのような私の考え方は、古くから教会にいる人達にはやはり、すんなりとは入ってはゆけないものでした。表面的に活動をして満足してたり、困った人達を助けたのだというような、自已満足的な気持をその運動に積極的に参加して来た中学、高校生達が抱かないではしいと、その運動を終えた時、私は祈らずにはおれませんでした。そんな事を考えていたある日、友達の一人から“べ平連ニュース”を見せてもらった私は、10月の第一土曜日のべ平連定例デモに加わることにしました。
正しいと思って行動することは大変気持の良いものでした。それ以来、べ平連の運動に積極的に加わり始めた私は、それまでの私の視野があまりにも狭いことに気が付きました。そしてより新しく広い視野を求め、社会に出て仕事をしたいと思いました。そして、今、勤めている合同出版で受付と営業の仕事を2月から始めることになったのです。勤め始めたのと同じ、丁度2月頃から私は新宿西口広場でフォーク・ソングを他の仲間の人達と一緒に歌い始めたのです。新宿の西口広場で歌おうと言い出したきっかげは、昨年の12月28日に新宿で“花束を持ったデモ”が行われ、そのデモに大阪からギターを持って参加した、北摂べ平連の坂本君達がデモの後、多くの人々と一緒に西口広場に行きフォーク・ソングを力一杯歌っているのを見た時でした。
私は「大阪の人達は何と素晴しい運動をしているのだろう」と思いました。知らない間に私も一緒に加わって、マイクを持っていました。歌いながら、頭の中で西口広場は、こんなに広いし、ここを通る私と同じような若い女性、勤め帰りのサラリーマン、学生、ピラを配ってもなかなか読んでもらえない人々に、フォーク・ソソグで訴えてみよう。きっと、戦争について、社会の矛盾について一緒に考えていけるような気がしたのです。同じ考えを持った小黒さんや堀田さんと共に、私は新年早々に新宿西口広場に出てゆく準傭を始めたのでした。そして2月には、フォークゲリラが誕生したのでした。
会社で逮捕されて
フォークゲリラ 新宿西口 5千人が集まった69年7・15 7月に入って、すぐに伊津さんや堀田さんが逮捕されたので、皆んなが、次は小黒さんの番ではないのだろうかと心配しました。小黒さん(ゴリちゃん)を連れて、皆んなであちこち泊ったり、表通りを歩くのにもとても気を使ったものでした。私も逮捕される覚悟はしていましたが、彼より先だとは思ってもいませんでした。それで7月14日、いつものように会社に出勤していた私は、お昼に友達と会社の仕事で出かけました。
神田にある私の会社の近くには、日大、明大、中大があり、カルチェラタン闘争以来、機動隊が来たり、パトカーが止っていたりするのはもう珍しい事のうちには入らなくなっていました。それで、社の近くに、パトカーが止っているのを見ても「ビンなど出さないで下さい、学生が暴れるかもしれませんから」と注意しに来たのかと思って通り過ぎました。仕事を済ませて、社に帰り着く途中、今度は、私がいつも新宿で見かけた私服刑事がいるのを見つけました。その時、さきほどまでは、ほとんど忘れかげていた、朝、会社にかかってきたおかしな電話の意味がはっきりしました。私がいるかどうかの確認のための電話だったのです。一緒に出かけた友達とは郵便を出す前に別れ、一人で歩いていた私は、それでもその私服刑事の立っている側をやり過ごすと、会社に入って真直ぐに自分の席に着こうとしました。
すると、私の机の所に立っていた刑事が持っていたたくさんの逮捕状の中から一枚を抜き出して、私の同行を求めたのです。その日、べ平連の名簿や書類などを一つにまとめて会社に持って来ていた私は、その事を考えて、たまたま持っていたお財布だげを持って、そのまま淀橋警察署に向いました。私は荷物のことを会社の人に目で合図して出て来たのですが、その事が一番心配でした。淀橋署での長い取り調べの後、菊屋橋署の留置場に移された時、初めて寂しさがこみ上げて来るのを感じました。翌日、会社に残して来た荷物の中に入れておいたハンカチが友達の手によって差し入れられた時、荷物が警察の手に渡らずに済んだことにほっとすると同時に、その事を、このように私に知らせてくれた友達に心から感謝しました。
そして、私が逮捕された翌日、会社に、朝早くガサ入れが来て、私の机以外の、私に関係のない編集の所までも写真に撮ったりして行ったことを知った時には、私の逮捕を利用した形で左翼的な傾向を持つ出版社の内容を70年を前にして、権力側は知りたがっているのではないかと私なりに解釈しました。べ平連でも、私の会社でも、あらゆる活動を進めている所では電話が盗聴されたりしているのです。
取り調べは大変ていねいで、全体としては親切な印象を受けました。そして、その態度から警察の方でも西口のことを慎重に扱っているということを感じられました。私を会社で逮捕したということについては、本当は西口か、家で逮捕したかったのだが、しかたなく勤め先で逮捕したのだという、何となくいい分げのように聞える説明を聞かされました。地検に行って私がびっくりしたことには、警察が、つまらない事は良く調べていてもかん心な事はあまり解ってない様子でした。フォーク集会の後、何時にゴミを拾っていたとかいう事は調べてあっても私が引越した事などは少しも知らない様子でした。検事は、ゴミを拾ったり、フォーク・ソングを歌うことは、確かに良い事だと認めますが、新宿西口は公共の道路で……と書類を見せて説明するというような具合でした。
私の入っていた菊屋橋署は、女性だけが収容される所で売春、恐喝、家出などの容疑の人達が入っていました。私は恐喝をした人と同じ房に入れられました。房に入った時、このお姉さんからいろいろな事を教わりました。いつも頭から離れなかったことは、「ここは売春の人が多いので病気を移されることもあるのよ。洗面の時には気を付けなさいね」といわれたことでした。
食事には、麦ご飯とたくあんとお汁といったものが出て来たのですが、戦争中は、などと前に聞いたりした話を思い出したりしてもどうしても、食べることができませんでした。房の前の通りに、朝と晩に来て「差し入れを認めろ!」と怒鳴る共産党員の人達に、友達の差し入れでやっとどうやら息をついた私は、思わず「異議なし!」と叫んでしまいました。その人達は仕事があって決められた差し入れの時間には来られないのです。
しかし、大臣や代議士達は何時でも差入れができるのに、自分達は認められないなんて、そんなバカな事があるかという訳なのです。房の中には「約束事」というはり紙がはってありました。ここには、「話をしてはいけない」「口笛を吹いてはいけない」などと書いてはあるのですが、「歌を歌ってはいけない」とは書いてはありませんでした。そこで、私はいろいろとフォーク一ソソグを歌いました。最初うるさいから止めなさいと言った看守も、私の、はり紙を楯にとった抗議を認めないわけにはいきませんでした。同じ房に入っている、恐喝をやったというお姉さんは、「古いヨーロッバでは」にすごく感動して、「ここを出たら彼氏と西口に行いきたいわ」などといっていました。それは、何もない留置場の中で、私とその人が気分を紛らわすことのできた、ひとときであったかもしれませんでした。
次の日、弁護士にあって、もしかしたら、10日問の拘留が付くかもしれないといわれた直ぐ後で、地検の検事に、“釈放”といわれた時の私は、飛び上って喜こんでしまいました。「僕の前で飛び上ったりして喜こんだのはあなただけだ」と驚いたような顔をして、笑い出した検事のその言葉もうわの空で最速手錠を取ってもらいにかかりました。私がこの貴重な体験をゆっくり考えることができるようになったのは、ずっと後になって私が落ち着いてからでした。翌日、私が西口広場でのフォーク集会で歌った、「古いヨーロツパでは」は、私にまた新しい感動を呼び起こす歌になっていました。
私の好きな「古いヨーロッパでは」
私は、前々からそうだったのですが、一番好きなフォーク・ソソグは?と訊かれたら、やっぱり「古いヨーロッパでは」と答えます。1匹の兎を捕まえるために10 匹の猟犬が走って行く、何も考えず、ただつかまえることの喜びだけで、馬に乗って行く貴族があった、というこの歌の文句は、悲しい事ですが古いヨーロッパでも今でも変らない現実、そこにある人間のむごさ、醜くさを、卒直に物語っています。私達はこの歌にもう一つ5番を加えました。1人の学生をつかまえるために何千の機動隊と何万のガス弾が投入される、西口では1人の平和な歌を歌う人間のためにそれをつかまえようと何十人もの私服が待っている、今の日本ではそうだ。というのです。
私はこの歌を歌う時、歌は短かいけれどもその中からあふれ出る人間の心からの訴えはとても強いものだと感じます。「いつも西口であなたの歌う『古いヨーロッパでは』を聞いて、その新鮮な訴えにいつも何かを感じているのです」という手紙をいただいて、とっても嬉しくなりました。
フォーク・ソングを始めたころ、フォーク・ゲリラの中で、同じ歌に飽きたといった人がいた時、私達のフォーク・ソングは、歌謡曲とは違うのだということ、一回ごとに新鮮な心をこめて訴えるのでなけれぽならない事を、皆んなで確認し合いました。この人の私の歌うフォーク・ソングヘのこの上ない讃辞を忘れることのないようにして歌っていきたいと思います。
私は今、現在の私がやっているべ平連運動をこのまま生活の中で生かし続けていきたいという希望を持っています。具体的には、会社の近くにある小さな公園で、お昼休みにギターをひき、フォーク・ソソグを歌い、そこにぶらっと出て来るオフィスの女の人達に語りかけてみよう、と考えているのです。そんな楽しい計画も私の中にあります。私の家では、今、父が病弱のために母は私に、会社をやめて、昼の学校に通って父の手伝いをするようにといいます。私が母の希望通りにすることは、今まで何もしてあげなかった私の父への最初で最後の贈り物になるかも知れないということを考える時、私の心は揺れ動くのです。
そして、形こそ変りはするげれど、何かしら私のやってゆけることがあるのではないかと思います。そのような私の考えを、弱いという友の声も聞きます。しかし、私がべ平連運動を続けてゆくうえで、闘う先頭にいるのではなく、ビラも読んでくれず、戦争のことも考えずにいる人達に、常に何かを呼びかけられる位置にいたいと思います。
これからも、私は生活環境によっていろいろな規制を受けるでしょう。だれかの良い奥さんになるために、お料理を一生懸命作るようになるでしょう。私は、その中で、精一杯運動をしていくことを考えましょう。そして、私は、どんなに年をとっても、西口広場から得たすべてのことを決して忘れることはないでしょう。
私の心の中に、フォーク・ソングがある限り、私はヘコたれることはないでしょう。
(「フォークゲリラとは何者か」1970年1月出版 より)
(2003年2月より新宿西口地下広場で反戦の意思表示、現在も継続中)
古いヨーロッパでは
【作詞】山内 清
【作曲】中川 五郎
一匹の野兎を追いかける
何十匹もの猟犬
その後から馬で走る
何十人もの貴族
そんな時代もあった 古いヨーロッパでは
一人の奴隷をつかまえるため
何十本ものむちのれつ
その後からピストルで追う
何百人もの人買い
そんな時代もあった 古いアフリカでは
ひとつの村をつぶすため
何十発もの砲弾
その後から銃(ライフル)を射つ
何千もの部隊
そんなことがあたりまえ あたらしい世界では
一人の兵士を殺すため
何百機のものB52
その空から落とし続ける
何千ものボール爆弾
そんなことがあたりまえ あたらしい世界では
ひとりの弱いものをみつければ
いつも血走ったその目で
殺しつづけようとする
古い世界でも
あたらしい世界でも ・・・・・
(9月25日(木) 「原子力空母ジョージ・ワシントン入港阻止全国集会」 )
「恐ろしい環境になることを感じとっていますか」 大木晴子
暑い土曜日になりました。私は昼過ぎに家を出ると
「電気料金値上げ、おかしくない?みんなのエネルギーデモ」 に
出て新宿の地上での意思表示を始めました。
先週立たれたひで爺さん 、雲さん、K島さん
そして「辺野古に基地はいりません」と呼びかけながらチラシをわたす
Kさんと一緒のスタンディングでした。
雲さんのわかりやすい言葉に目が止まります。
隣でKさんが両手で大きなメッセージを掲げています。
斉藤さんとひで爺さんも立ちます。
ひで爺さんは、丸木美術館支援のプラカードです。
原爆の図丸木美術館では、 企画展 「今日の反核反戦展2008」 が
9月13日[土]―10月25日[土]まで行なわれます。
ホームページでその内容が丁寧に紹介されています。
訪ねてください!そして美術館へ足をお運びください。
今日は、斉藤さんのところで若者が声をかけていました。
一生懸命に話す斉藤さんの姿を拝見して「誠実な方だなぁ?」と思いました。
ムキンポさんそして後ろにはKシスターが立ちます。
Oさんの旗が排気口からの風で揺れます。
隣のK島さん のプラカードはフォトアルバムに掲載しています。
建築現場で働いているのかなぁ?。
裾が広がっている作業着を着た若者が警察官に呼び止められた。
身体中を触られていた。
はじめ一人だった警察官は三人に増えた。
皆で彼のカバンの中に手を・・・・・。
行き交う人が多い地下広場です。
たくさんの人が見ます。
抗議しない若者、当たり前のように行動する権力、
この若者は、この後何事もなかったように解放された。
「怒れ!」もっと自分を大切に信じなさい!
kiss-meさん、新しいプラカードでした。
「時間が無かったから絵が小さいの!」・・・と。
Sさんが間に合いました。
私の写真はムキンポさんに撮って頂きました。
あっ!そうだ今日はもう一枚写真があります!!
素敵な娘さんに今日も声をかけていただきました。
話しをしているとひで爺さんが飛んで来て「写してあげましょう」と
彼女の後ろ姿を・・・・嬉しい記録の一枚になりました。
Aさんが広場に着いたのが7時過ぎでした。
「もう!みんな帰った後で残念でした」と電話をいただきました。
みんないろいろなこと抱えているから広場に来られない日もあるけど
私は感じる!ほら!あの柱で!!
たくさんの訴える心の声がこだましているのを・・・・。
(08-09-09・おおきせいこ)
★もうすぐ!9・11ですね。