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投稿者 : seiko 投稿日時: 2008-09-15 04:33:24 (3685 ヒット)
 

菊屋橋から出た日             大木晴子(旧姓 山本)

フォークゲリラ・新宿西口 菊屋橋署の階段をおりたとき、「太陽がまぶしい」……ただ、その一言しか言葉に出なかった。太陽がこんなにも、なつかしく、大切なものだと感じたことは、いままでになかった。その太陽に照らされたせいか、汗びっしょり、すぐお風呂屋に飛びこみ、好きなユカタに着がえたとき、はじめて、自分の気持を取りもどし、おちついて考えることが出来ました。

 その姿のまま、すぐ西口広場へ行きました。そこでは、私が逮捕される以前から、行なわれていた、出入国管理法案に反対する人達のハンストが、今もなお、多くの人々によって続行していました。皆んな顔見しりで「いつ出て来たの」、「元気そうでよかったワ」、「もっと長いとおもって心配しちゃった」など、多くのやさしい言葉が、私を包んでくれました。
 あの大きな円をえがいた広い広いタイル、太い柱、広い天井、交番、ソフトクリーム屋、皆んな皆んなとてもなつかしく感じた。
 すごく長い時間、ここにこなかったようた気がして、なつかしさで目の奥があつくなるのを感じながら、ソフトクリームをかじり、西口広場のすみからすみまで歩いた、何回も何回も。ゲタの音だげが、私の気持をわかってくれたのか、はしゃいではしゃいでしかたがなかった。

 私はこの西口広場で多くの人々と一緒にフォーク・ソソグを歌ったということで、3日前(’69年7月14日)に逮捕されたのです。その長い4日間が過ぎて、私は今、見せかけだけの自由にあふれた西口広場に立っているのです。そして、この4日間にいろいろなことを学びました。友達との暖かい触れ合いを、以前にも増して強く感じることができたことでは逮捕されて逮捕されて""よかった""と冗談めいた言葉までいえるほど落着いた私に戻りかけていました。

日曜学校からべ平連へ

フォークゲリラ 新宿西口 昭和23年、生化学の研究をしている父の6人兄弟の末っ子として、私は東京の練馬で生れました。小学校は練馬区立開進第三小学校へ入学、開進第三中学校へ進みました。そこで2年生を迎えた時、家が日野に移ったので日野第二中学校で残りの中学生時代を終えました。そしてどちらかというと古風な考え方を持つ母の勧めもあって、実践女子学院高校に学ぶことになりました。

 この高校では、男子部もあったのですが、一切交際禁止でした。他の高校が大学受験のためにますます予備校化している中でお作法とか、行儀とかいったことを何よりも重視するという封建的な校風がありました。しかしお作法とか行儀というものがただ単にお嫁に行くためのものだけではなく、もっと広いものとして考えたいと思い、そのような校風の中である時には反発し、反抗的にさえなったものでした。私が女性であると同時に一人の人間であり社会の一員であるということから、私が成すべきこと、学ぶべきことがあるような気がしていました。私に、このことについて考える場を与えてくれたのは、教会の日曜学校でした。なにげなく訪れた教会で、明るく飛び回っている子供達を見て、規則と因習に縛られた心に何か感ずるものがありました。教会という所は私にはまったく新しい世界で、そこでは学校とは違って、私が人間社会の大きな輪につながっているのだということを絶えず感じました。学校ではお作法を一生懸命学ぶ一方、私は教会と自分との距離を次第に狭めてゆきました。良い意味で封建的な面とキリスト教の教えとを私なりにうまく調和した形で理解しているつもりでした。

 私は、高校生活の3年間が終ろうとするころ、毎週通っていた教会の付属幼稚園から、アシスタントとしての話を受げました。この仕事について、いつも私と一緒に教会に通っていた兄はとても賛成してくれましたが、母はあまり良い返事をしてくれませんでした。というのは、この仕事をすることで私の接する社会が狭められるのではたいかと心配してのことでした。でも私の心が通じたのか、1年の期限付きということで許してくれました。この就職が決って、子供達の前に立つということを考えた時、ただ単に子供が好き、子供と一緒に過したいという単純な気持で過して来た私の中に、キリスト教信仰ということが重くのしかかって来ました。そのような気持の中で、何かはっきりとしたげじめをつげておぎたかったので、洗礼を受げました。昭和42年、封建的な女子高校生活から解放されて、教会付属幼稚園の手伝いをし、毎週日曜日には多くの子供達と一緒に過ごす日々が続きまLた。しかし一年間という日々があっという間に過ぎ去ろうとした時、母との約束通り次の身の振り方を考えねぱなりませんでした。結局、幼稚園を去らなければなりませんでしたけれども、教会の日曜学校というものからは離れることはできませんでした。

 私の行っていた教会は、大きな団地の真中にあり、通って来る子供の大部分は団地に住む子供達でした。私はその子供達と遊んだり話したりする中で、子供達の求めているものは一体何なのだろう?そして、団地生活という一つの現代的な生活環境を考えた時、そのようなすベてのことをつきつめ、理解した上でなけれぼ、福音など口にできないと考えるようになりました。このように考え始めた私は、古くからいる教会の人達と意見が食い違い、また新たに、キリスト教信仰というものに対しての考え方が、心の中でわき始めて来るのを感じ得ずにはおられませんでした。

 ある年の暮に私達の教会の属している日本キリスト教団の方針で、南北ヴェトナムの子供達に医薬品を送る運動を始めました。私はその運動をしてゆく中でヴェトナム戦争のこと、そして、その戦争の中でのアメリカの誤りを指摘した上でなくては、本当の救援活動などあり得ないと考えました。しかしそのような私の考え方は、古くから教会にいる人達にはやはり、すんなりとは入ってはゆけないものでした。表面的に活動をして満足してたり、困った人達を助けたのだというような、自已満足的な気持をその運動に積極的に参加して来た中学、高校生達が抱かないではしいと、その運動を終えた時、私は祈らずにはおれませんでした。そんな事を考えていたある日、友達の一人から“べ平連ニュース”を見せてもらった私は、10月の第一土曜日のべ平連定例デモに加わることにしました。

 正しいと思って行動することは大変気持の良いものでした。それ以来、べ平連の運動に積極的に加わり始めた私は、それまでの私の視野があまりにも狭いことに気が付きました。そしてより新しく広い視野を求め、社会に出て仕事をしたいと思いました。そして、今、勤めている合同出版で受付と営業の仕事を2月から始めることになったのです。勤め始めたのと同じ、丁度2月頃から私は新宿西口広場でフォーク・ソングを他の仲間の人達と一緒に歌い始めたのです。新宿の西口広場で歌おうと言い出したきっかげは、昨年の12月28日に新宿で“花束を持ったデモ”が行われ、そのデモに大阪からギターを持って参加した、北摂べ平連の坂本君達がデモの後、多くの人々と一緒に西口広場に行きフォーク・ソングを力一杯歌っているのを見た時でした。
 私は「大阪の人達は何と素晴しい運動をしているのだろう」と思いました。知らない間に私も一緒に加わって、マイクを持っていました。歌いながら、頭の中で西口広場は、こんなに広いし、ここを通る私と同じような若い女性、勤め帰りのサラリーマン、学生、ピラを配ってもなかなか読んでもらえない人々に、フォーク・ソソグで訴えてみよう。きっと、戦争について、社会の矛盾について一緒に考えていけるような気がしたのです。同じ考えを持った小黒さんや堀田さんと共に、私は新年早々に新宿西口広場に出てゆく準傭を始めたのでした。そして2月には、フォークゲリラが誕生したのでした。

会社で逮捕されて

フォークゲリラ 新宿西口 5千人が集まった69年7・15 7月に入って、すぐに伊津さんや堀田さんが逮捕されたので、皆んなが、次は小黒さんの番ではないのだろうかと心配しました。小黒さん(ゴリちゃん)を連れて、皆んなであちこち泊ったり、表通りを歩くのにもとても気を使ったものでした。私も逮捕される覚悟はしていましたが、彼より先だとは思ってもいませんでした。それで7月14日、いつものように会社に出勤していた私は、お昼に友達と会社の仕事で出かけました。

 神田にある私の会社の近くには、日大、明大、中大があり、カルチェラタン闘争以来、機動隊が来たり、パトカーが止っていたりするのはもう珍しい事のうちには入らなくなっていました。それで、社の近くに、パトカーが止っているのを見ても「ビンなど出さないで下さい、学生が暴れるかもしれませんから」と注意しに来たのかと思って通り過ぎました。仕事を済ませて、社に帰り着く途中、今度は、私がいつも新宿で見かけた私服刑事がいるのを見つけました。その時、さきほどまでは、ほとんど忘れかげていた、朝、会社にかかってきたおかしな電話の意味がはっきりしました。私がいるかどうかの確認のための電話だったのです。一緒に出かけた友達とは郵便を出す前に別れ、一人で歩いていた私は、それでもその私服刑事の立っている側をやり過ごすと、会社に入って真直ぐに自分の席に着こうとしました。

 すると、私の机の所に立っていた刑事が持っていたたくさんの逮捕状の中から一枚を抜き出して、私の同行を求めたのです。その日、べ平連の名簿や書類などを一つにまとめて会社に持って来ていた私は、その事を考えて、たまたま持っていたお財布だげを持って、そのまま淀橋警察署に向いました。私は荷物のことを会社の人に目で合図して出て来たのですが、その事が一番心配でした。淀橋署での長い取り調べの後、菊屋橋署の留置場に移された時、初めて寂しさがこみ上げて来るのを感じました。翌日、会社に残して来た荷物の中に入れておいたハンカチが友達の手によって差し入れられた時、荷物が警察の手に渡らずに済んだことにほっとすると同時に、その事を、このように私に知らせてくれた友達に心から感謝しました。

 そして、私が逮捕された翌日、会社に、朝早くガサ入れが来て、私の机以外の、私に関係のない編集の所までも写真に撮ったりして行ったことを知った時には、私の逮捕を利用した形で左翼的な傾向を持つ出版社の内容を70年を前にして、権力側は知りたがっているのではないかと私なりに解釈しました。べ平連でも、私の会社でも、あらゆる活動を進めている所では電話が盗聴されたりしているのです。

 取り調べは大変ていねいで、全体としては親切な印象を受けました。そして、その態度から警察の方でも西口のことを慎重に扱っているということを感じられました。私を会社で逮捕したということについては、本当は西口か、家で逮捕したかったのだが、しかたなく勤め先で逮捕したのだという、何となくいい分げのように聞える説明を聞かされました。地検に行って私がびっくりしたことには、警察が、つまらない事は良く調べていてもかん心な事はあまり解ってない様子でした。フォーク集会の後、何時にゴミを拾っていたとかいう事は調べてあっても私が引越した事などは少しも知らない様子でした。検事は、ゴミを拾ったり、フォーク・ソングを歌うことは、確かに良い事だと認めますが、新宿西口は公共の道路で……と書類を見せて説明するというような具合でした。

 私の入っていた菊屋橋署は、女性だけが収容される所で売春、恐喝、家出などの容疑の人達が入っていました。私は恐喝をした人と同じ房に入れられました。房に入った時、このお姉さんからいろいろな事を教わりました。いつも頭から離れなかったことは、「ここは売春の人が多いので病気を移されることもあるのよ。洗面の時には気を付けなさいね」といわれたことでした。

 食事には、麦ご飯とたくあんとお汁といったものが出て来たのですが、戦争中は、などと前に聞いたりした話を思い出したりしてもどうしても、食べることができませんでした。房の前の通りに、朝と晩に来て「差し入れを認めろ!」と怒鳴る共産党員の人達に、友達の差し入れでやっとどうやら息をついた私は、思わず「異議なし!」と叫んでしまいました。その人達は仕事があって決められた差し入れの時間には来られないのです。
 しかし、大臣や代議士達は何時でも差入れができるのに、自分達は認められないなんて、そんなバカな事があるかという訳なのです。房の中には「約束事」というはり紙がはってありました。ここには、「話をしてはいけない」「口笛を吹いてはいけない」などと書いてはあるのですが、「歌を歌ってはいけない」とは書いてはありませんでした。そこで、私はいろいろとフォーク一ソソグを歌いました。最初うるさいから止めなさいと言った看守も、私の、はり紙を楯にとった抗議を認めないわけにはいきませんでした。同じ房に入っている、恐喝をやったというお姉さんは、「古いヨーロッバでは」にすごく感動して、「ここを出たら彼氏と西口に行いきたいわ」などといっていました。それは、何もない留置場の中で、私とその人が気分を紛らわすことのできた、ひとときであったかもしれませんでした。

 次の日、弁護士にあって、もしかしたら、10日問の拘留が付くかもしれないといわれた直ぐ後で、地検の検事に、“釈放”といわれた時の私は、飛び上って喜こんでしまいました。「僕の前で飛び上ったりして喜こんだのはあなただけだ」と驚いたような顔をして、笑い出した検事のその言葉もうわの空で最速手錠を取ってもらいにかかりました。私がこの貴重な体験をゆっくり考えることができるようになったのは、ずっと後になって私が落ち着いてからでした。翌日、私が西口広場でのフォーク集会で歌った、「古いヨーロツパでは」は、私にまた新しい感動を呼び起こす歌になっていました。

私の好きな「古いヨーロッパでは」

 私は、前々からそうだったのですが、一番好きなフォーク・ソソグは?と訊かれたら、やっぱり「古いヨーロッパでは」と答えます。1匹の兎を捕まえるために10 匹の猟犬が走って行く、何も考えず、ただつかまえることの喜びだけで、馬に乗って行く貴族があった、というこの歌の文句は、悲しい事ですが古いヨーロッパでも今でも変らない現実、そこにある人間のむごさ、醜くさを、卒直に物語っています。私達はこの歌にもう一つ5番を加えました。1人の学生をつかまえるために何千の機動隊と何万のガス弾が投入される、西口では1人の平和な歌を歌う人間のためにそれをつかまえようと何十人もの私服が待っている、今の日本ではそうだ。というのです。

 私はこの歌を歌う時、歌は短かいけれどもその中からあふれ出る人間の心からの訴えはとても強いものだと感じます。「いつも西口であなたの歌う『古いヨーロッパでは』を聞いて、その新鮮な訴えにいつも何かを感じているのです」という手紙をいただいて、とっても嬉しくなりました。
 フォーク・ソングを始めたころ、フォーク・ゲリラの中で、同じ歌に飽きたといった人がいた時、私達のフォーク・ソングは、歌謡曲とは違うのだということ、一回ごとに新鮮な心をこめて訴えるのでなけれぽならない事を、皆んなで確認し合いました。この人の私の歌うフォーク・ソングヘのこの上ない讃辞を忘れることのないようにして歌っていきたいと思います。

 私は今、現在の私がやっているべ平連運動をこのまま生活の中で生かし続けていきたいという希望を持っています。具体的には、会社の近くにある小さな公園で、お昼休みにギターをひき、フォーク・ソソグを歌い、そこにぶらっと出て来るオフィスの女の人達に語りかけてみよう、と考えているのです。そんな楽しい計画も私の中にあります。私の家では、今、父が病弱のために母は私に、会社をやめて、昼の学校に通って父の手伝いをするようにといいます。私が母の希望通りにすることは、今まで何もしてあげなかった私の父への最初で最後の贈り物になるかも知れないということを考える時、私の心は揺れ動くのです。
 そして、形こそ変りはするげれど、何かしら私のやってゆけることがあるのではないかと思います。そのような私の考えを、弱いという友の声も聞きます。しかし、私がべ平連運動を続けてゆくうえで、闘う先頭にいるのではなく、ビラも読んでくれず、戦争のことも考えずにいる人達に、常に何かを呼びかけられる位置にいたいと思います。

 これからも、私は生活環境によっていろいろな規制を受けるでしょう。だれかの良い奥さんになるために、お料理を一生懸命作るようになるでしょう。私は、その中で、精一杯運動をしていくことを考えましょう。そして、私は、どんなに年をとっても、西口広場から得たすべてのことを決して忘れることはないでしょう。
 私の心の中に、フォーク・ソングがある限り、私はヘコたれることはないでしょう。
(「フォークゲリラとは何者か」1970年1月出版 より)

(2003年2月より新宿西口地下広場で反戦の意思表示、現在も継続中)

古いヨーロッパでは

【作詞】山内  清
【作曲】中川 五郎

一匹の野兎を追いかける
何十匹もの猟犬 
その後から馬で走る
何十人もの貴族
そんな時代もあった 古いヨーロッパでは

一人の奴隷をつかまえるため
何十本ものむちのれつ 
その後からピストルで追う
何百人もの人買い
そんな時代もあった 古いアフリカでは

ひとつの村をつぶすため
何十発もの砲弾 
その後から銃(ライフル)を射つ
何千もの部隊
そんなことがあたりまえ あたらしい世界では

一人の兵士を殺すため
何百機のものB52
その空から落とし続ける
何千ものボール爆弾
そんなことがあたりまえ あたらしい世界では

ひとりの弱いものをみつければ
いつも血走ったその目で 
殺しつづけようとする
古い世界でも
あたらしい世界でも ・・・・・

投稿者 : seiko 投稿日時: 2008-07-26 23:58:05 (7485 ヒット)


『しのぶ寿司』・・・義母とのほろ苦い思い出 大木晴子

私は1975年の春に結婚をした。
南へ北へと取材で飛びまわる連れ合いとの生活にも慣れて来た頃、
運動会の準備で忙しい幼稚園の仕事を終えて帰宅すると電話が鳴った。

実家の母からだった。
「疲れた声ね、大丈夫。夕食は・・・」
まだ,食欲が無いからと応えると
「ダメよ。食べていらっしゃい。近くにお寿司屋さんないの!」
と背中を押すような元気な声が私の身体の中を走った。
「う〜ん、あるけど・・・」
「じゃ、直ぐに行って好きな物を食べていらっしゃい」
母は、今度家に来たときに払うから何でも食べなさいと言って電話を切った。

私はお寿司なら食べられそうとおもい近くの『しのぶ寿司』へ出かけた。
カウンターに座ると大好きなウニとトロを頼んだ。
二つを食べ終わった時、カラカラと入口の戸が開いた。
何気なく戸口を見た私は、背中が一瞬、凍った。
立ち上がったが、言葉が出なかった。
そこには、義母が風呂敷に包んだ大きな寿司桶を抱えて立っていた。
義母も目を丸くして言葉が出ない様子だった。
まるで、映画のワンシーンのような場面は無言のまま終わった。
義母が帰り、私は店の人たちに新入りの大木の家族であることを告げた。
この日、来客があり寿司を届けたことを板前さんから聞き、
何時も義母は桶を返しにくることも教えてもらった。

運が悪かった。
今でもそう思うことがある。
家に帰ると母に電話をかけた。
ようすを聞いた母は、一言だけ言った。
「今晩お風呂は、頂いて来なさいね。」・・・と。
この頃、連れ合いの実家から1〜2分のところに間借りをしていた。
お風呂は、何時も義父が出る頃に行っていた。
母に言われたように風呂の準備をして家の前まで行った。
でも、なかなか入れなかった。
行ったり来たりと何度も坂道を歩いた。
当時、凹凸の路面の感触を今でもよく覚えている。



そして、大きな深呼吸をして「こんばんは」と勝手口をあけた。
義母は夕食の片付けをしていた。
「さっき、お母さまからお電話を頂きましたよ」と義母が言った。
何も言葉を返せぬままこの日の思い出は私の心のタンスに仕舞われた。

暫くして実家へ行くと母が義母の大好きな煎餅を立派な缶入りで用意していた。

それから15年近くが経ち義母が亡くなった後、
タンスの上に置かれていたこの缶を見つけた。
蓋をあけるとそこには、私が毎年誕生日に作り義母に贈った
色あせるまで使われたエプロンがきれいに並べられていた。

時が流れ私の中でクッスと思い出し笑いをしてしまう『しのぶ寿司』でのワンシーンは、
義母にとってもきっとほろ苦い思い出だったのではないだろうか。
(08-07-27・おおきせいこ)


(2002年ベトナム、早朝の公園で花を売る人)

★今日、7月27日は、義母の命日です。
1989年、美空ひばりさんと同じ年に亡くなりました。

投稿者 : seiko 投稿日時: 2007-04-21 15:10:11 (2380 ヒット)


『いいわ!自分でさばくから』      大木晴子

この春、二週間ほど私は入院した。
点滴で過ごす時間が長かったので食事が出るようになって
その食材を何時も以上に愛おしく見つめた。
その一つが、タラの煮付けだった。
「母の好きな魚だったなぁ〜」と思いながら箸をつけた。
一口食べると懐かしいかおりが身体の中の細胞を揺り動かした。

小さい頃、私は練馬の江古田という所に住んでいた。
家の近くには、大きな市場があって母の手を握りながら
よく買い物に出かけた。



冬のある日、母とその市場へ出かけた。
母の持つ買い物カゴは、何時も幼い私には大きく見えた。
市場に着くと中程にあった魚屋さんで母は嬉しそうに
魚を一匹持ち上げて「これくださいな」・・・・・と。
すると中で元気なおじさんが「奥さん、さばきましょうか」
と言う声がかえってきた。
「いいわ!自分でさばくから」とこれまた元気に母が言った。
頭が出るくらい大きな魚が入った買い物カゴを
楽しげな母の手と一緒に持った。

母は家に着くと白い割烹着を着て大きなまな板の上で
その魚から丁寧にはらわたを取り出した。
珍しそうに覗き込んでいる私に「これを煮ると美味しいのよ。」
と飛び切り弾んだ母の声が台所に響いた。
その後、母はその魚を丸ごとぶつぶつぶつと輪切りにした。
大きな鍋に魚は並べられて上には丁寧に取り出された白い物が置かれた。
母は、一升瓶に入った醤油や味醂を忙しそうに抱えて味付けをしていた。
火から離れる事なく鍋の煮立つ音を聞いていた。

その時に、この魚がタラと言う名前だと初めて聞き、
母の生まれた北陸ではよく食べる魚だと聞かされた。

翌朝、台所へ行くと母が「晴子ちゃん、これを見てごらん。」
と言って大きな鍋の蓋をあけた。
そこにはタラを取り出した後の汁が固まっていた。
母は、スプーンでそれを掬うと私の口の中に入れた。
固まった汁は、私の口の中で解けて優しい味がした。
母の思いが詰まったかおりがした。
これが、煮こごりということもこのとき初めて知った。

あれから、何十年も経った。
私は近所の魚屋さんで「これ、いただくわ」・・・と。
そして「奥さん、さばきましょうか。」と言う声に
「いいわ!自分でさばくから」と応えている。
(2007年4月 おおき せいこ)



★写真は、2002年ベトナム・ホーチミン市の市場です。

投稿者 : seiko 投稿日時: 2006-03-17 03:02:12 (2884 ヒット)


『湯呑み』      大木晴子

 大きくなり過ぎて悲鳴をあげた泰山木の手入れをお願いした。
急な頼みを快く引き受けてくれた職人さんたちに
「お昼は作らせて頂きますね」と約束をして・・・・。
当日は豚汁を作り、おにぎりを握った。
そして湯呑みを用意しながらふと40年近く前の
風景を思い出していた。


 父が亡くなり母の老後を考えて母屋と合わせて
アパートを建てることになり大工さんが初めて来た日に母は、
客用の揃った湯呑みでお茶を出した。
夕方皆さんが仕事を終えて帰ると「晴子、買い物に行きますよ」
と誘われ母は真っ直ぐ瀬戸物屋に向かった。
そして、湯呑みが並ぶその前で楽しそうに選び始めた。

 少し大きめな寿司屋さんで使うような茶碗を持って
「これは親方さんね」そして可愛い花の模様や
茄子など野菜も市松模様もあった。
全部が違う模様の湯呑みが幾つも並んだ。

 翌朝、職人さんが来ると母は楽しそうにそれぞれの湯呑みに
お茶を注ぎ一人ひとりに手渡していた。
「今日から皆さんの湯呑みです。ご自分の絵柄を覚えて下さいね」
と少し照れながら伝えていた。

 毎日湯呑みは、母の漬けた漬け物や温かい汁物と一緒に
出されて、元気な大工さんたちの声を聞きながら家の完成の
日を一緒にむかえた。

 職人さんたちの最後の日、何時のようにお茶を出すと一番若い
見習いさんの男の子が母に言ったそうです。
「奥さん、この湯呑みを頂けますか。僕の初めて仕事でした。
とても楽しく仕事が出来ました。記念に頂けますか。」・・・・と。
すると他の人も同じように頭を下げられたそうです。
 
 母は、とても嬉しそうにその時の様子を話してくれました。
一緒に買いに行った瀬戸物屋さんのことや
大きな樽に漬け込んだ白菜漬けを毎日
「美味しいです。とても」と言って食べてくれた職人さんと
向き合って過ごしたその何ヶ月間は、
母の大切な思い出の一つに・・・・。
あの湯呑み、きょうも何処かで・・・・・。
(06-03-17・おおきせいこ)

投稿者 : seiko 投稿日時: 2006-01-03 00:10:04 (2945 ヒット)


「修正してないよ!」・・・撮影裏話し    大木晴子

柴犬ジローと散歩から戻り玄関を開けると
「パソコンを立ち上げて、写真を送るから・・・」
と連れ合いの声がしました。

ジローの足を洗いながら「ジローの年だから載せようね。楽しみ!」
と話しながら散歩へ出かける前に撮ってもらった写真が見たくて
洗う手も何時もよりはやいように私もジローも感じていました。

送られて来た写真をあけようとしたとき・・・・・
「年 とったなぁー でも修正してないよ!」と
連れ合いの声が響きました。
「皺の一本ぐらい直してくれればいいのに!!」
と笑いながら画面に出て来たジローと私の
2005年最後に写してもらった写真
「気に入ってるよ」と心の中で感謝!!

そして・・・・
「ジローと見つめた先に、何があるのか知ったらみんな笑ってしまうね。きっと」
二人で吹き出してしまいました。

目線が少し上に遠くを見つめるような表情がいいなぁー。
そこでこの日は、ジローが好きなソーセージを連れ合いの頭にのせて撮っています。
ジローの眼は、暫くそのソーセージを見つづけていました。
私はと言えば、可笑しさを堪えるので精一杯でした。




今までにジローや先代次郎と一緒にたくさんの写真を撮ってもらいました。
その中でも思い出に残る一枚は、先代次郎が我が家にやって来たときの写真です。
この一枚のモノクロ写真の中には
香り、色、風、優しさ、愛おしさ、生きる喜び、希望
を感じることができるからです。

そして・・・・
ソーゼージを見つづけて撮ったこの写真もまた思い出の一枚になりました。
たくさんの皆さんと繋がることが出来た2006年のスタートに
見ていただけたことを“幸せ”と感じています。
(06-01-03・おおきせいこ)

★トップで掲載したこの写真は、
フォトアルバム(反戦・平和)に掲載しています。

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